
また第三者。
紫の空の下で。
written by sonora
碇くんが唐突に転校してしまったのは中学2年になってしばらくしてからだった。
人見知りするタイプなのか、周りとあまり話さず、休み時間には1人で音楽を聴いていた。
でも、友達がいない根暗というわけでもなさそうだった。クラスでも割と目立たない感じの男の子たちと一緒に帰っているところを見たことがあったから。
だから多分人付き合いが苦手なだけなんだろうな、と私は思っていた。
クラスの席替えで1度だけ碇くんの隣になったことがある。その時の様子を見る限り、彼は結構マジメだった。退屈で仕方ない授業もきちんとノートをとっていたし、余所見もほとんどしない。
「碇くんてマジメだね」
授業中、ノートの端にそう書いて見せたら。
「そんなことないよ」
と、男の子にしては丁寧な字で答えが返ってきた。顔を上げたら、困ったように笑う碇くんと目があった。
「ね、音楽好きなの?」
席が近くなったこともあって、私たちはわりと話せるような間柄になっていた。彼はあまりおしゃべりではなかったから、私が尋ねたことに彼が答えるだけではあったけど。
その時も、いつものように授業の合間の休み時間に彼に話しかけた。
「え、何で?」
「だっていっつもそれで音楽聴いてるでしょ?」
「あぁ、コレ」
碇くんが持っていたのは黒いSDATだった。いつから使っているのか分からなかったけど、結構年季が入っていたように思う。
「どんなの聴くの?」
「クラシックとか、そういうのだけど」
「へー、クラシックか。いいじゃん」
「そう、かな」
「うん。私ピアノやってるから弾くのも聴くのも好きなんだ。クラシックって」
「そうなんだ」
「3歳の頃から始めてもう10年やってるけど、でも才能ないみたいであんまり上手くないんだけどね」
そこで碇君は一呼吸置いた。それから、そっかぁ、と何気ないトーンで呟いて続けた。
「良かったらさ、今度聴かせてよ」
正直言って、ちょっと驚いた。碇くんがそう言うことを言えるとは思ってなかったから。でも私は、
「OK!」
と軽く返事をし、そこで授業開始のチャイムが鳴った。
退屈な国語の授業が終わると次は体育だった。お昼前の体育なんて最悪だ。日が高くて暑いし、お腹がすいてるからあまり動きたくないのに。しかも私はあんまり運動が好きではないし。
それでもクラスの友達と連れ立って、校舎の奥にある更衣室へ向かう。最近になってようやく作られた更衣室は、まだ微かに新しいペンキのにおいがした。
「ね、最近碇くんと仲いいね」
「え、そう?」
「もしかして好きなの?」
「何いってんの」
女の子っていうのはそういう話だとすぐに飛びついてくる。私はあっという間にクラスメートに囲まれてしまった。
「よくしゃべったりしてるじゃん」
「席が近いからだよ」
「ふーん。碇くんって話さないタイプだと思ってたんだけどなぁ」
「人見知りなだけだと思う」
「あたし、碇くんってそんなに好きなタイプじゃないんだよね」
「そんな「うん! 分かる分かる! なんとなくなよっとしてるもんね」
「でも「部活してないし色も白いしね。あ、でも体育は結構得意っぽいけど」
「へー、意外!」
・・・私をよそに、いつの間にか碇くん論議はヒートアップしていった。
クラスの女の子の評価は『おとなしくて害にはならないタイプだけど何か女々しいよね』という感じだった。
そんなことないと思うけどな、私はそう思いながら、一足先に更衣室から逃げ出した。
そんなこともあったけど、私たちはそれなりに話すクラスメートとしておおむね上手くやってきた。
「あ、あのさ」
とある蒸し暑い日の放課後、帰り支度をしていた私は碇くんに呼び止められた。
「何?」
「今日、時間ある?」
「今から? うん平気だけど」
当時の私は部活には入っていなかった。両親が共働きで、下に小学生の弟と幼稚園に入ったばかりの妹がいたから、部活をしている余裕はなかったのだ。
「そのさ、ほら、前にピアノ聴かせてくれるって約束、あっただろ」
「あー、うんうん」
「それ、今日聴きたいんだけど」
言いにくそうに、申し訳なさそうな顔で碇くんは言った。そんなに低姿勢にならなくてもいいのに、と思いながら私はその申し出を了承した。
「いーよ。音楽室でいいよね?」
碇くんは今度はほっとした笑みを浮かべた後、ポケットからどこかのキーを取り出した。
「1音のカギ。これ」
「準備早いなぁ碇くん」
「そうかな」
「そうだよ。んじゃ、行こうか」
私たちは連れ立って音楽室へ向かった。
1音、というのは第1音楽室のことで、普段の授業では使わない古い音楽室のことだ。狭くて湿気っぽくて、楽器には可哀想な部屋だと思う。壁には日に焼けたドレミの表やら、ベートーベンやショパンやモーツァルトの肖像画(美術部員が書いたようなあんまりうまくないヤツ)がかかっていた。
年季の入ったグランドピアノの蓋を開け、簡単な指鳴らしをしながら私は言った。
「吹奏楽部とかコーラス部とか来ないかな」
「先生に聞いてみたら、吹奏楽部はコンクール前だから近くの市民ホールで練習だっていってたから大丈夫だよ」
「コーラス部は?」
「今日は休みだって」
「・・・準備いいねぇ、ホント。そんなに私のピアノ聴きたかった?」
「え、や・・あの、ほら」
そんなに驚かなくても、というくらい碇くんは動揺していた。私はふふっと軽く笑って、
「冗談だよ冗談。でも嬉しいな。聴きたいと思ってくれてさ」
と言うと、碇くんははにかんだように、それでもどこか哀しげに笑った。
「さて、やるよ。適当でいいかな。リクエストされても弾けないと思うし」
「あ、うん。何でも」
私は1度大きく深呼吸して、最初の音を出した。
まずはトルコ行進曲。次にエリーゼのために。指が乗ってきたところで子犬のワルツに入った。
正直言って、私はピアノは上手くない。強弱とか緩急をつけるのが苦手だし、ただ音を流しているようにしか弾けない。
だから人前で弾くのは好きではなかった。だけど、今は目の前の碇くんのために少しでもカッコ良く弾こうと頑張っていた。
そんな自分にびっくりした。そしてそんな自分の演奏を碇くんがどう思うかちょっとだけ不安だった。
ワルツが終わって、拍手が鳴る。
「すごいよ。上手だよ」
碇くんはそう言ってくれた。私はちょっとだけ照れながら、最後に弾きたかった曲を思い出す。まだ練習中で上手く弾けないかもしれないけど、これは弾きたかった。
「もう一曲だけいい?」
「まだあるの? すごいなぁ、レパートリーが多くて」
「そんなことないよ。ごめん、まだ練習中だから上手くないけど」
「うん」
「有名じゃないと思うけど、カッコいいんだ。メンデルスゾーンの『プレスト・アジタート』」
左手を伸ばして、最初の和音を出す。初めはフォルテ、次にピアノになって、もう一度フォルテに戻る。左手も右手も動く、私の苦手なタイプの曲。
何度もミスしたけど、そこで止めようとは思わなかった。ただひたすら最後まで弾こうと頑張った。
ラストまでたどり着き、私はゆっくりと鍵盤を押した。
一瞬の間のあと、拍手。
「いっぱいミスっちゃった。ごめん」
「全然分からなかった。すごい上手だよ。才能あると思う」
「ないない。趣味でやれればそれでいいんだ、私」
「そっかぁ。でもありがとう。こんなに上手いと思わなかった」
「お世辞でもありがとう」
ぺこっと、発表会のときそうするように頭を下げ、ピアノを片付ける。窓の外を見れば、ぼんやりと薄暗くなってきていた。今から帰って夕飯の仕度をすればちょうどいいかもしれない。
「暗くなってきたね」
「そうだね。涼しくなっていいけど」
碇くんは頷いた。そしてその後、私に向かって口を開いた。
「あの、最後に、なんだけどさ」
「ん?」
ピアノの片付けで気づかなかったけど、碇くんはいつの間にか黒い大きなケースを持ってきていた。私の身長くらいありそうなヤツで、バイオリンのケースがそのまま大きくなったような形だった。
「もしかして、それ・・チェロ?」
彼は頷いた。それから、また申し訳なさそうな顔をして、言った。
「良かったら、一曲だけ弾かせてよ。お礼にならないかもしれないけど」
「え、碇くんチェロ弾けるの?」
「一応・・・ね」
「へぇ! そういうことは早く言ってよ」
「ごめん」
「謝らなくていいけどさ、わー、生でチェロか! 1回聴いてみたかったんだよね」
「いっとくけど、僕は下手だからね」
てきぱきと準備する碇くんを見て、私は思った。
もしかしたら、彼も誰かに音を聞いてほしかったのかもしれない。私もそうだったように。
「じゃあ、行くよ」
「うん。曲名は?」
「バッハ、『無伴奏チェロ序曲』」
ぽつりと言うと、彼は弓を構えて静かに弾き始めた。
曲名は知らなかったけど、どこかで聴いたことのある有名な曲だった。しかも確かこれは相当練習しなければ弾けない曲だ。
碇くんは目を瞑ったまま弓を動かしていた。どことなく楽しそうな顔をして。
流れてくる曲は聴いている私にそのまま染みこむ感じで、とても上手だった。いつからやってるんだろう? と私は思った。
彼が弾いていた時間はほんの3分ほどだった。だけど短いとは感じなかった。それだけで充実してしまいそうな感じ。
「えっと・・・どうかな?」
碇くんがそう言うまで、私は拍手もしないで呆然としていた。慌てて拍手をして、すごい! 上手じゃん! とバカみたいに連呼した。
「そうかな。ありがとう」
「いつからやってんの? すごいよ」
「4歳の頃先生に勧められて始めたんだ。でも今でもこの程度だからね。才能なんてないよ」
「あるって! 将来はチェリストになれちゃうよ」
「そんなことないよ」
照れたように手を頭にやって微笑む碇くんは、ちょっとだけカッコ良かった。
結局家に帰る頃には空は濃い紫に変わっていた。途中まで一緒に帰りながら、私たちは何でもないことを話し続けていた。こんなに会話が進むなんて今までの私たちからは考えられなかった。
「あ、じゃあ僕はここで」
「あ、うん」
「気をつけてね」
「うん。碇くんも」
碇くんは一瞬口ごもって、何かを言おうとしていたみたいだった。でも結局手を上げて、
「じゃあ、また」
と言った。
私は笑ってそれに答える。
「うん! また明日!」
碇くんが何の前触れもなしに転校してしまったのは、その翌日だった。
すいません、ちょっと続きます。
前に『NEON GENESIS EVANGELION Gehen Wir!』に投稿した『4年前の敗北』とちょっと似た感じ。今度の主人公は、シンジが第壱中学校に転校するまえのクラスメートです。
モドル