特有の臭いの漂う部屋で彼の素裸の背中に両手を触れる。
 当初持っていた地黒なイメージは彼の普段の服装からだったのだろうか、以外に白い。
 傷跡が目立つほどには。
 背中に残るそれをそっと撫で、そこから感じられる熱に思わず溜息が漏れる。
 それは手から伝わってくるそれ以上に――自分でも驚くほど熱を持っていて。
 彼が首だけを動かしてこちらを振り向く。

「そない気になるんか? 傷跡」
「あ、御免なさい。痛かった?」
「いや、少しこそばいわ」

 後ろ手で傷の辺りを撫でようとして、微妙に届いていないその様子にくすりと笑う。

「こういうのって無意識に指でなぞったりしない?」
「迷路かいな」

 わざとらしく溜息を吐いた彼に再度笑いが出る。
 私は何時の間にこんなにも図太くなってしまったのだろうか。
 手にした濡れタオルを持ち直し、改めて肩から背中にかけて拭く。
 少し、筋肉の落ちてしまった傷だらけの体。

 でも、どんなに傷ついていても、貴方の背中の広さは変わらなかった。

背中合わせ

written by KLEIN

 特有の臭いの漂う部屋で首だけをそっと振り返らせて後ろを覗き見る。
 同じくこちらに背中を向けている上半身素裸の彼。
 当初持っていた地黒なイメージは彼の普段の服装からだったのだろうか、以外に白い。
 傷跡が目立つほどには。
 抜糸もとっくに済んでいて、傷口が完全に塞がってからかなり経つけれど……やはり痛々しい。
 私の視線に気付いたのか、彼がこちらを振り向いた。

「そない気になるんか? 傷跡」
「あ……そういう訳じゃないの」

 顔が熱くなるのを感じながら慌てて首を戻し、備え付けの小型ワゴンに向き直る。
 その拍子に持っていた濡れタオルをぽとりと床に落としてしまった。
 あたふたと拾い上げてワゴンの上に置く。
 別のタオルを熱湯を張った洗面器に浸すと、厚手のゴム手袋を通して伝わってくる熱に逆に頭の中は冷静になった。
 後ろからは彼が改めて体を拭き始めた音が聞こえてくる。
 背を向けた先、彼が座るベッドの向こう側にある大きな窓からは光が差し込み、部屋の中を隅々まで照らしている。
 しかし、白さだけが浮き上がった感じのする色のない部屋は、正直に言うとあまり心地のいいものではなかった。
 清潔さばかりが目立つ生活感のなさ、と言った方がいいのかもしれない。
 無駄に広い部屋の中、活けた花がサイドボードの花瓶の上で浮いているような気がしてしまう。
 平たく言ってしまえば「病室」というものの典型なのだろうけれど。
 何時まで経っても慣れる事のできないその雰囲気に一つ息を吐き、浸したタオルを絞る。
 本来なら看護師の人が行う清拭。
 人手が足りないということもあって、家族や友人がお見舞いに来れる人は自分達でやっている。
 でも彼の場合、お父さんとお爺さん、さらに別の棟に妹さんも入院していて誰も来られない。
 それで前からお見舞いに来ていた私が名乗り出て、彼のお手伝いをすることになった。
 自分でできる、という彼の頑なな抵抗と、内心私も彼の体を拭くという事に恥ずかしさがあったのは事実で。
 結局、こうして背中越しに蒸しタオルの受け渡しをするだけなのだけれど。
 お父さん達のように相部屋だったなら、他の人もいてそんな事を言っている場合ではなかったかもしれない。
 ここが集中治療室ICUだというのを差し引いても、これだけの広さの個室がずっとあてがわれているというのは彼が特別扱いされているという事。

「……?」

 ふと後ろから射してくる彼の影が何やらもぞもぞと動いているのに気付いた。
 再びそっと首だけ動かして目を向けると、背中に手を伸ばして一生懸命傷跡を探っている彼の姿。
 その仕草が可愛く感じられて微笑みかけ……自然とトーンが落ちた。
 自分の行動と、彼が「特別扱い」される事になった理由に。

「……御免なさい、こんなにちらちら見てれば気になってるって言ってるようなものよね」

 言葉にした後、そんな事を言った自分の口が許せなくて唇を噛み締める。
 でも、一旦飛び出していった言葉は絶対に戻ってこない。
 このような事を言えば多分彼は。

「どんな感じなんか自分ではよう見えへんからなぁ……。まぁ男の傷跡は勲章や、いいんちょが気にする事あらへん」

 後ろからなんでもないような口調で言葉が返ってくる。
 分かっていた。
 分かっていた筈なのに。

「勲章って――! ……勲章だなんて」

 思わず振り返りながら荒げてしまった声。
 その大きさに、上半身裸のままの彼が驚いて振り向く。
 彼の片足に一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らすように顔を伏せる。
 唐突に途切れた……本来なら隣のもう一方と同じくその先まで続いている筈の。
 同時に、彼からそれを奪った相手に対する怒りと憎しみが湧き上がる。
 その感情の向け先がお門違いという事も分かっている。
 それが彼を困らせてしまうことも。
 でも、いつもそれを止める事ができない。
 彼が以前のように笑いを取ろうしなくなったのは、それに気付いて、気遣わせているからだというのも分かっている。
 それなのに。
 表には絶対に出さないように、していたのに。
 両手で握り締めたタオルを見つめて、滲んでいく視界を元に戻そうと我慢する。

「お、おい……」
「御免なさい……」

 一つ零れたら次々と。
 目が乾燥したわけでもごみが入ったわけでもないのに、何故流れるのだろう。
 何の意味があるのだろう。

「ちょ、ちょお待て。ワシが何かマズい事ゆうたんやったら謝る、せやから泣かんといてくれ」
「違うの……違うの……御免なさい……御免なさい」

 狼狽え、ベッドの上で手をついて頭を下げる彼。
 私は何て嫌な人間なのだろうか。
 彼がそう返してくるだろう事も分かっていたはずなのに。
 それなのに彼にそんな事を言わせてしまった、させてしまった事が悲しくて。
 いや、こんな風に考える事そのものが、状況と自分に浸っているだけ。
 泣く事で被害者になろうとしている卑怯な自分が悔しい。
 それでも、次々に溢れてくる涙はタオルで押さえても止まりそうにない。
 益々彼を困らせるだけだというのに、謝罪の言葉を繰り返し、嗚咽を漏らすだけの私の口。

「……頼むわ、泣かんといてくれ」

 すっと頭に暖かいものが乗り、その正体に気付いて息を呑む。
 ぎこちなく、優しく頭を撫でてくれる彼の手。
 その感触と温もりに安堵している自分は何て現金な人間なのだろうか。
 彼のために流したわけではない、どこまでも自分本位の涙は、それだけであっさりと止まった。

「……もう、大丈夫」
「ほうか」
「うん……ありがと」

 彼の手が離れていく。
 それに合わせて、また出てしまいそうだった謝罪の言葉を飲み込み、震える声でなんとか感謝の言葉を声に出した。
 そう、声に出しただけ。
 何に対してのお礼なのか、自分でも理解なんてしていない。
 考えれば考えるほど、ここでこそ謝罪の言葉が適していたように思えてしまう。
 これでは構ってくれと泣く子供と変わらない。
 いや、自覚があるだけ計算高く、性質が悪いということなのだろうか。
 離れていった彼の手に寂しさを感じる資格が私にはあるのだろうか。

「新しいタオル、貰ってくる」
「ちょっと地べたに落としただけやろ? 別にワシは気にせぇへ――」
「戻ってくるまで、上、着ておいて。風邪引くといけないし」
「あ、おい――」
「すぐ戻るから」

 ゴム手袋を外してワゴンの上に置き、彼の声を背中に受けながら病室を飛び出す。
 このままでは決定的な台詞を言ってしまいそうだった。
 それだけは、言ってはいけない。
 絶対に言いたくない。
 でも、どんな理由を並べたとしても。
 私は……彼と、自分と、その両方から逃げてしまった。
 どんな顔をして戻ればいいだろう。
 すぐに戻る、と言ってしまったけれど、出来る限りそれを先延ばしにしたい自分がいる。
 足取りも重くナースステーションに向かい、中の様子を伺う。
 相変わらず人手不足が続いていて、中には二人しかいない。
 私の姿に気付いたのか、二人が顔を上げ、片方の女性がこちらにやってきた。

「どうしたの?」
「あ、あの……体を拭くタオルの予備を貸してもらえませんか? 落として汚しちゃって――」
「そうじゃなくて」
「え?」

 肩に手を置かれ、ウェットティッシュでそっと頬を拭かれる。
 涙の跡が残っていたらしい事に、反射的に身を引いて袖で顔を拭った。

「す、すみません、有難うございます」
「彼と喧嘩しちゃった?」
「い、いえ……そういうわけじゃ」

 優しげな声にも、自分の顔を隠す為に俯いてしまう。
 今更かもしれないけれど、目も赤いはず。
 彼の先程の慌てぶりを今更理解した。
 泣き顔もそのままに病室を飛び出していけば心配もするだろう。
 心配……してくれたのだろうか。
 小さく深呼吸して顔を上げ、真っ直ぐに向かいの女性を見つめる。

(あ、アスカと同じ……)

 白人の血が混じっているのだろう、彫りが深い顔立ちと空色の瞳のその人が優しく微笑む。
 結い上げた濃いブラウンの髪の色が益々彼女を連想させて、別の理由でこみ上げそうになった涙を堪えて声を出す。

「大丈夫です、ちょっと私が――」
「鈴原君! 何してるのっ!」

 ナースステーション内から慌てた大声が響き渡り、私と女性は反射的に顔を向けた。
 私に渡す為に用意してくれていたのだろう、真新しいタオルの束を手にしたもう一人の女性がこちらに駆けてくる。
 その視線が向いているのは私の後ろ、廊下の向こう。
 振り返ると、廊下の手摺に掴まって息を切らせる彼がいた。

「――っ!」

 声にならない悲鳴というのは本当にあるのだと始めて知った。
 がくがくと震えている彼の片方の足。
 呆然と立ち尽くす私の横を看護師の二人が駆け抜けていく。

「無茶しちゃダメよ!」
「どうして車椅子使わないの。リハビリはちゃんとプログラムされてるから焦っちゃ駄目って言われてるでしょ?」
「あ、いや、すんません。すぐ戻りまっさかい、ちょっとだけ――」

 両脇から支えられながら決まり悪げに答える彼の顔がこちらを向く、たったそれだけのことで体がびくりと震えた。
 そして……口を開こうとした彼よりも先に、私の口は勝手に言葉を零し出した。

「このまま私がいると、迷惑かけるから、だから」

 震え続ける声。
 自然と足が一歩づつ後ろに下がり始める。
 言ってしまった。
 絶対に言わないと、言いたくないと決めていた事を。
 また溢れ出したものが頬を流れ落ちていくのを感じる。
 こんな独り善がりの言葉、言いたくないのに。
 止めたいのに。
 この涙は何の涙なのか、もう自分でも解らない。

「私、来れない。……もう、来れない」

 違う。
 私は逃げようとしているだけ。
 自分の嫌な面を思い知らされるここから、逃げ出したいだけ。

「御免なさい……御免なさい……」
「いいんち――」

 そして私は何か言いかけた彼の言葉を待たず、背を向けて走りだした。


「ヒカリぃ〜。お父さんと鈴原のおじさんとお爺ちゃんに何て言うのよ……ってゆーか明日からどうすんの? アンタ」
「……ここにいる。家の中のことは全部私がやるから」

 洗い物を終わらせたお姉ちゃんがテーブルの向かいに座りながら聞いてくる。
 腕を枕にローテーブルに突っ伏して横を向いたまま返事をすると、溜息が返ってきた。

「で、お父さんやおじさん達に何か聞かれたら私やノゾミは何て答えたらいいワケ?」
「……迷惑かけたからって」
「なら尚更自分で言いなよ。自分で引き受けた挙句、途中で投げ出すんだから」
「行きたくない……」

 駄々を捏ねる子供のように腕の中に顔を埋める。
 そんなことをしたところで自分の世界に篭もれるわけでもないけれど。

「ホント、ヒカリって甘えんぼだね。外じゃ優等生してるくせに」
「……」

 それほど広くはないとは言っても家族用の宿舎。
 キッチンと十畳のリビングダイニングに八畳の和室、六畳の洋室が二つ。
 お父さんが入院しているから、今のところ姉妹それぞれに自分の部屋がある。
 なのに、私はここで塞ぎこんでいる。
 自分の部屋なら誰の邪魔も入ることなく居られるのに。
 やっぱり私は人に構って欲しいだけの子供ということなのだろうか。
 改めて思い知らされても、やっぱりここを動くつもりのない私の体。
 組んだ腕を狭め、頭を抱え込むように深く顔を埋める。
 二の腕が耳を塞いで、少しだけ遠くなった音が周りの世界から私を切り離してくれた。

「カタツムリになっちゃった」

 お姉ちゃんが別の方向に向けて冗談っぽく言うのが篭もって聞こえてくると同時に、石鹸の匂いと別の気配が近寄ってくる。
 それはテーブルのすぐ側で立ち止まると、私の斜向かいに座った。

「ヒカリお姉ちゃん、もうお見舞い行かないの?」
「そうなんだって」

 ノゾミの言葉にやれやれと呆れたような言い方で代わりに返事をされ、苛立ちが募る。
 たとえそれがわざとやっているとは分かっていても……いや、わざとだというのが分かるからこそ尚更。
 発破をかけてこちらを動かそうとしているそのやり口が気に入らない、と感じるのは捻くれているのだろうか。
 そんなものに乗せられるものか、という反発心が湧き上がり、更に腕を狭めて顔を深く埋める。
 お姉ちゃんが溜息を吐いてノゾミと顔を見合わせる気配が伝わってくる。
 すると、隣から小さな手が私の肩を揺らした。

「何か失敗しちゃったの? ……あのね、鈴原のおじいちゃんが言ってたよ。お姉ちゃんにいつも有難うって伝えてって」

 慰める為に言ってくれたのだろう。
 でも、気がついた時には私は顔を上げ、叫んでしまっていた。

「何で今そんな事言うのっ! 分かってるわよ! 私が悪いんだってのは分かってる!」

 私の大声にノゾミは手を引いて驚いた表情を浮かべると、やがて顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
 まずい事をした、という思いと、様を見ろ、という歪んだ思いが混ざり、涙を流す彼女に追い討ちをかけるように言葉が飛び出していく。

「泣きたいのは私のほうよっ!」
「ヒカリ、やめな。ノゾミにあたってどうすんの」

 お姉ちゃんの視線と声が厳しいものに変わり、ぴしゃりと切り捨てられる。
 次の瞬間、私がとった行動は自分でも呆れるほど単純なものだった。

「ヒカリっ!」

 お姉ちゃんの声とドアの閉じる音を背中に受けながら。
 部屋着にサンダルという姿のまま、また逃げ出したのだから。


 夕立が降ったせいで少しひんやりとした空気の中、宿舎の階段を駆け下り、真新しい道路をただ走る。
 区画整理はされているものの、復興が進む街並みは少し気に留めなかった間に大きく変わっていて。
 夜ということもあり、気が付いた頃には今自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。
 しかも、避難生活が長く、まだ学校も再開していないこともあって運動不足だった私の体。
 フェンスに手を付いて息を切らせ、よろよろと前に進む。
 ふと今になって自分の格好を改めて思い出した。
 少しだけ冷静になった頭がすれ違う人の視線を気にし始め、私は通りかかった公園に逃げ込むように入る。
 真新しく、ピカピカのベンチや遊具が並び、砂場の壊れた砂山の側に誰かが忘れたらしい小さなバケツとスコップが転がっている。
 汗を吸ったシャツが張り付いて気持ち悪い。
 ふらふらとベンチに近寄り、ぺたりと座り込んで、瞬間的にお尻に広がった嫌な感触に飛び上がるように立ち上がる。
 見ると、そこは夕立の跡がまだ乾いていなかった。
 下着まで染みてしまった水の冷たさと情けなさに気分が更に滅入る。
 他に休めそうな場所はないかと辺りを見回して、手近にあったブランコに近づいて乾いているかを鈍い動きで確認し。
 鎖に縋りつくように座って、深く溜息を吐く。
 辺りに虫の声が静かに響く中、気が抜けた途端、堰を切ったように涙が零れだした。
 いい加減、もう残ってなさそうなものなのに。
 頭の中では声を出したら近所迷惑だとか考えていて。

「……嫌い、皆大っ嫌い。私が一番嫌い!」

 人前で分別のある人間を取り繕うことばかり秀でているようで自分が益々嫌になる。
 自分で自分を罵倒してみても、何も変化はない。
 何時まで経っても止まらない涙は、公園に声を殺した私の泣き声を響かせる。
 流れる涙を何度も手の甲で拭う。
 部屋着のまま飛び出したせいでハンカチも何もない事すら悔しい。
 誰かが構ってくれるまで、私はまたこうやって子供のように泣き続けるのか。

「もう嫌……」

 自己嫌悪ばかり先立つ。
 結局状況とそんな自分に浸っているだけじゃないかと嫌悪感を増すものの、やはり何もしようとはせず。
 そんな自分にまた苛立ちと悔しさが増す。
 繰り返す思考に、次第に何もかもどうでもよくなってきた。
 と、虫の声の中に足音が混じる。
 誰かが公園に入ってきたのだと気付いて顔を上げると、女性らしき人影が見えた。
 お姉ちゃんに見つかったのかと咄嗟に身構え、背格好が違いすぎるのに気付いてすぐにその可能性を否定する。
 腫れぼったい瞼と涙でまだ微妙に滲んだ視界に遮られて、誰なのかがはっきりと分からない。
 相手が誰にしろ、今の自分の姿を見られるのは嫌だった。
 あまり意味はないのは分かっているけれど、袖で目元を拭って取り繕う。
 その人は真っ直ぐにこちらに向かってやってくる。
 補導員か何かなのだろうか。
 周囲を見回して経路を確認しながら、逃げたほうがいいのか、と自分でも意外なほど大胆な事を考える。
 ブランコから立ち上がろうとした瞬間、声が響く。

「洞木、さん……よね?」

 呼びかけにぱっと顔を上げる。
 暗い公園の中、街灯の光を透かして飴色に光る長く伸びる髪と、青い瞳。

「……アスカ?」

 思わず呟いた次の瞬間、私は立ち上がり、彼女に抱きついて大声で泣いていた。
 近所迷惑とかといったものはどうでもよくなっていて、ただ泣きじゃくる。
 私の頭を撫で、背中を優しく叩きながらじっとしてくれている彼女。
 気持ちが落ち着いて頭に冷静さが戻ってくるにつれ、状況が飲み込めてくる。
 目の前のこの人が『彼女』のはずがないという事も。
 私より頭半分以上高い身長。
 胸元に顔を埋める形になっているせいでよく分かる消毒薬の匂い。
 まだ少し引きずっている嗚咽を堪えながらそっと体を離す。

「す、みません、服が……」
「大丈夫、気にしなくていいわ」

 また構ってくれる人が現れたことで、それに縋りついた自分に失望のようなものを感じた。
 このままだと私は誰かが手を差し伸べてくれるまでその場で泣き続けるだけの人間になってしまうのではないかと。
 足がまたも勝手に逃げ出そうとしているのを必死に我慢する。
 泣いて、手を差し伸べられて、縋って、勝手に自己嫌悪して、逃げ出して、また泣く。
 その繰り返しは嫌だ。
 俯いて震える足を堪えていると、そっと肩を抱いてブランコに座らされ、目の前にペットボトルが差し出された。
 驚いて見上げる先で優しく微笑まれる。
 髪は下ろしているものの、そこにいるのは間違いなく昼間ナースステーションで会った人だった。

「泣くのってね、物凄いエネルギーや水分を消費するの。喉渇いたでしょ?」
「あ……はい」

 瞳と髪の色だけで『彼女』と間違えるなんて、私の頭はどうかしているとしか思えない。
 有難うございます、の言葉が続かず、両手で握って足の上に置いたままのそれをじっと見詰める。
 特に何か思うところがあったわけではなく、力が抜けただけ。
 街頭の光を受けてボトルの中でゆらゆらと揺れる水を見ていると、何故か気分が落ち着いた。

「冷えてなくてゴメンね。脱水症状を起こした人に遭った時の為に持ち歩いてるのよ」
「あ、いえ、済みませんいきなり黙っちゃって……有難うございます」

 無言の理由を誤解されたのか、謝られてしまって慌てる。
 キャップを捻って一口飲み、一息つくと、再び沈黙が落ちた。
 今になってこのあとどうするか考え始め、途方に暮れる。

「ねぇ、洞木さん」

 呼びかけに顔だけを向ける。
 同じく、真新しい鎖を軋ませ隣のブランコに座りながらこちらに向けられる視線。

「明日から本当に来ないの?」

 本当に心臓というのは縮み上がるのだと、本当に胸が痛いのだと思い知った。
 自分の事で泣き喚いていただけで、彼がその内容のどこにもいなかった事も。
 彼に縁を切るような事を言ってしまったという事実を今更実感する。

「……はい」

 これは自分に対する罰だと考えるのも、きっと独り善がりなんだと思う。
 それでも、私は彼に会わせる顔がない。
 きっと、感情の向け先がないまま、彼の前でまた暴走してしまうだけ。

「あの終わり方でいいの?」
「……」

 いいわけがない。
 でも、彼の傍に居ると……彼の傷だらけの姿を見ていると、心の底で渦巻いてしまう。
 彼を傷つけた事、傷つけた人に対するどうしようもない感情が。
 彼の事は事故だし、彼を傷つけた人、そう命令した人も役目だったのだという事は分かっている。
 ても。

「彼、凄く落ち込んでたのよ。『何とかして謝りたい』って言って」
「そんな! 謝るのは私の方なのに……!」

 反射的に返した私の言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべる。

「それじゃ、明日謝りに行こう?」
「え……あ……」

 何も言えない。
 本当は私も行きたいのだから。

「実は彼にも『私に任せておいて』って言っちゃったし」

 いつもの私なら、こういった事を言われれば話を受けるのだと思う。
 でも今は、そんな真似をする自分が恩を売るような事をして優越感に浸っていた嫌らしい人間に思えて仕方がない。
 多分、彼に宣言してきたというのは嘘。
 私に「きっかけ」を与える為に言ってくれているのだろうというのが分かって情けなくなる。
 それと同時に、昨日の今日で……と気になって首を縦に振る事ができない。

「コラ。貴女くらいの歳の子が体面なんか気にしなくていいの」
「えっ……」

 見透かされたのか、私が判りやすく単純なだけなのか。
 顔が熱くなって自分でも赤面している事が分かり、体を縮めるようにして俯く。
 隣で、かしゃんとブランコの揺れる音が響き、視界の端に肩幅に広げてこちらを向いている足が映る。

「ヒカリ、アンタ今更何か取り繕うつもり!? これだけ格好悪い姿を晒しといて!」
「――!」

 思わず見上げる。
 街灯を背に腰に手を当てて立つそのシルエットはまさしく『彼女』のそれで。

「ウジウジした奴は一人だけで十分なのよ! シャキっとしなさい!」

 何なのか良くわからないものが込み上げ、また視界が滲む。
 ぐっと堪えると、優しく抱き締められた。
 胸に顔を埋めたまま、頭を撫でられる。
 『お母さん』と零れそうになった言葉を飲み込み、暫くそのまま目を閉じた。

「恥の上塗り、なんて考えちゃダメよ。素直な子が一番可愛いんだから」

 抱き締められたまま頷く。
 そのまま目を閉じれば眠ってしまいそうで。
 無理矢理自分を現実に引き戻す為にそっと身を離した。
 また恥ずかしくなり俯くと、今度は笑いながら頭を撫でられる。
 手をそっと取られて、自然と立ち上がる私の体。
 後ろでかしゃんとブランコが鳴る。
 私は手を引かれたまま振り向くことなく歩く。

『おかあさぁ〜ん……おかあさぁ〜ん……』
『ヒカリ〜』
『おかあさん!』
『駄目でしょ、勝手に一人で遠くに行っちゃ』
『ごめんなさいぃ……』
『ホラ、泣かないの。もうすぐヒカリもお姉ちゃんになるのよ?』

 ふと思い出したそんな記憶に、また零れてしまった涙を拭い、鼻を啜る。
 泣きながら手を引かれて歩くなど、どれくらいぶりだろう。
 確か妹が生まれてから。
 ……いや、お母さんを亡くしてから。
 生まれたばかりのノゾミを抱いたお父さんと並んで、お姉ちゃんに手を引かれて歩いたのが最後。
 私の手を握る少しひんやりとした指の力が強くなり、気分を変えるように明るい声が響く。
 私が彼の病室に置いたままにしてきた荷物を届けに来たのだと。
 殆ど入れ違いで私の家にやってきて事情を知り、探してくれていたらしい。
 お姉ちゃんは「甘ったれてるだけだから直ぐに帰ってくる」と笑っていたそうだ。
 帰ってやるもんか、と反発心も沸き起こるけれど、自分でそれを思い知ってしまっては出来るはずもない。
 ノゾミは自分のせいで私が出て行ったと思っているらしく、代わりに探して欲しいとこっそり頼まれたのだとか。
 時間も時間だし、元よりそのつもりだったから気にしないで、と言ってはくれたものの、迷惑をかけた事に変わりはない。
 恐縮しながら公園の外に止めてあった自転車を押すその隣に並んで歩く。
 何時の間にか、繋いでいた手は離れていた。


 目は腫れぼったくないか、お姉ちゃんに打たれた頬の赤みは消えているか。
 そんな事を気にしながら、翌日私は彼の病室の前にいた。
 腕が重い。
 ドアノブに手をかけて押すだけでいいのに、唇を噛み締めて一人立ち尽くす。
 後ろに引くつもりはもうないけれど、実のところ前に踏み出す勇気も未だ出なかった。
 何度深呼吸したか解らない。
 大きく息を吸い……吐く時は溜息に変わる。
 そんな自己暗示の金縛りは、唐突に終わった。

いいんちょ、そこにおるんやろ?
「えっ……」

 中から突然かかった声に思わず反応する。
 咄嗟に口を噤んでも、もう遅かった。

入って……来ぇへんのか?
「…………」

 その言葉は重くなった腕を持ち上げさせ、床に根を張っていた足を動かさせるには十分で。
 視線を上げる事が出来ないまま、扉を押し、病室に入る。
 彼と目を合わせることが出来ない。
 今どんな顔で私を見ているのだろう。
 昨日あんな事を言っておいてのこのことやって来た私をどう思っているだろう。

「……いっつも来てもろとるからな。足音で解るんや」

 嬉しい筈なのに、素直に喜べない。
 それは、彼がごく真面目に言ったせいだろうか。
 責められているように聞こえてしまって、涙腺が緩みかけるのを必死に我慢する。
 ドアの前に立ち尽くしたまま、上げる事のできない視線はベッドの足を見つめたまま。
 落ちた沈黙が痛かった。
 何か言わなければ、そう思うほどに言葉が見つからない。
 安堵のものなのか呆れなのか、彼が吐いた溜息にびくりと反応してしまう。

「ホンマにもう来ぇへんのかと――」
「御免なさい!」

 殆ど反射的なものだった。

「本当はあんな事言いたくなくて、でも止められなくて、どうしたらいいか解らなくなって……」

 時折声が裏返りながら叫ぶように飛び出していく言葉。
 ただの言い訳。
 どうしよう、どうしたらいいだろう。
 止まらない。

「御免なさい……私は……私が、卑怯で、狡くて、弱い人間だったせいであんな事……」

 また、沈黙が降りる。
 呆れられた、今度こそ、間違いなく。
 相手も目も見ず、俯いたまま言い訳と自虐的な言葉を並べるだけなんて。

「何や、いいんちょとセンセは似とるなぁ……」
「え……?」

 のんびりとした言葉に、思わず顔を上げる。
 そこにあったのは、ベッドに横になったまま、天井を見上げて苦笑する彼の顔。
 やがて起き上がろうと上半身を持ち上げ、顔を顰めるのを見て、慌てて駆け寄って手伝う。

「あたた……ホンマ、ヘタレとるのぉ、ワシの体」
「あまり無理しないで。お願いだから……」
「いや、大丈夫や。人と話するんに寝転がったままっちゅう訳にもいかん」

 片方しかない足はバランスを簡単に失わせ、ベッドの上で踏ん張る事すら出来ない。
 背中を支え、起こされながら彼が続ける。

「前な、最初おうたばっかしの頃にな、センセも同じ事ゆうてん」

 何か思い出すようにして苦笑しながら言われた言葉に、何も言い返せない。

「謝らんとアカンのは自分の方や、卑怯で狡くて弱虫で……ってゆうてな」

 そんなやりとりがあったとは知らなかった。
 気がついたら彼等は仲のいい友人同士だったから。

「ワシが謝るつもりで行ったはずやってんけどな、結局そん時も逆に謝られてしもた」
「でも、だって……昨日は、昨日のあれは――」
「いや、ワシは自分がどう思っとるんか、何考えとるんか、大事な事はなんもいんちょに言わんやった。せやから、いいんちょも気ぃ遣ってなんも聞かへんやってんやろ? そのまま誤解させとったんはワシや」

 彼の言い方から、私が何をどう考えていたのかはばれているのだと分かった。
 夕焼けに染まる公園で『彼女』に言われた言葉を思い出す。

「一番世話かけとるんは、ワシなんや。せやから、すまんかった」

 顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見ながら言ってきた彼に気圧され、思わず頷く。
 気がつけば、物凄く近い位置で顔を突き合わせていた。
 彼もその事に今更気付いたのだろう、慌てて身を翻してこちらに背を向け、私はその勢いに思わず手を離す。
 自分が呆けているのが自分でも判ったけれど、そんな中、心臓だけはやたらと動きが激しかった。

「それにその……ワシは……いいん――ほ、洞木が来てくれたら、嬉しい」
「……え?」

 向こうを向いたまま、躊躇いがちに響いてきた言葉に耳を疑う。
 立て続けに降りかかってくる現実に思考がついていかない。
 苗字だけれど、初めて彼が名前を呼んでくれたように聞こえた。
 多分、それそのものは幻聴や妄想でも、聞き間違いでもない。
 でも、そこに含まれている意味を、ネガティブなままの私の頭は素直に受け入れてくれない。
 そこはやっぱり私の勘違いや思い込みだったりするのだろうか。

「あ、あの……」
「せ、世話係がいるっちゅー意味とちゃうで」

 顔は背けたまま。
 でも、赤く染まった耳が、私の妄想が妄想ではないと教えてくれていた。
 私はまた、彼に言わせてしまったのだろうか。
 いや……こんな私なのに、言って貰えたという事なのだろうか。
 自分から逃げているばかりの人間なのに。
 結局、何もかも一人相撲でしかなかったという事なのだろうか。

「せやから、その、つまりやな」

 単純な女、現金な人間と呼ばれようが構わない。
 『私』を、必要としてくれる人がいるのだから。


 頬に感じる彼の背中は、広く、温かかった。

fin.

KLEINさんからいただきました、「背中合わせ」でした!
思わぬ変化球を投げられた、という感じです(笑)
お題SSへの参加、ありがとうございました!


モドル