
『ねぇ、アスカ』
手紙は、その一言で始まっていた。
典型的な男の子の文字。角ばっていびつな字。シンジらしいと思うのは、どことなく遠慮してるみたいに、ちょっと小さめに書いてるところ。
シンジはいつの間にこれを書いたんだろう。そんなことを思った。
Der Brief
written by sonora
その手紙は、シンジが使っていた部屋のデスクの、引き出しの奥に入っていた。薄いピンク色の封筒の表には『アスカへ』と、裏には、隅っこの方に小さな文字で『シンジ』と書かれている。
封筒の中には、便箋が一枚。封筒の色と同じ色をした紙に、手で書いたみたいなグレーの罫線が引かれているだけのシンプルなものだ。
『ねぇ、アスカ』
便箋の一番上には、一言そう書いてあって下にはこう続いている。
『僕たちは、普通じゃない出会い方をして、非現実的な毎日を送ってた。何度も痛い目や怖い目にもあったよね』
確かにシンジの言うとおりだ。使徒を倒すためのパイロットとしてドイツから来たアタシと、先に日本で使徒殲滅の任務についていたシンジが初めて顔を合わせたのは、太平洋艦隊所属の空母、オーバー・ザ・レインボーの上だった。
自分の身長の何百倍もあるような決戦兵器を操って、得体の知れない敵、使徒と戦っていたアタシたち。使徒の攻撃を受ければ痛いし、自分の命を掛けて戦っていたのだから、怖くないと思ったことなんてなかった。
「海に落ちたらヤバいんじゃない?」
「落ちなきゃいいのよ」
「でも、武装がない・・・」
「ブログナイフで十分よ」
「結構デカイ」
「思った通りよ」
アタシの初陣、エントリープラグの中でシンジと交わした会話。
シンジはあの時、アタシのことをどう思ったんだろう。自信があるんだな、くらいは思ったかもしれない。でもホントは、怖くて仕方がなかった。あれは訓練じゃなくて実戦。もし負ければそれまで。あの時は怖がっていると見せたくなくて見栄を張っていただけ。
ことあるごとにシンジを鈍感扱いしていたのは、アタシの虚勢を見破って欲しかったからなのだ。
『でも、楽しかったこともいっぱいあった。
修学旅行にいけなくたって、代わりに温泉に行ったり、パーティをしたり、休みの日には一緒に買い物に行ったり。そういう小さなことが、僕にとっては大切な思い出になってるんだ』
それはアタシも同じよ、と便箋に向かって答える。思い出の大部分を占めているのは戦いの日々だからこそ、そういう小さなことがとても楽しかった。シンジの前でそれを口に出すのは、結局1度もなかったけど。
『2人で遊園地に行ったこともあったよね』
そう、そういうこともあった。
同級生のヒカリに頼まれて1度だけ、知らない男の子と一緒に遊園地にデートに出かけたとき、そのデートがあんまりにもつまらなくて、途中ですっぽかして帰ってきてしまったときのことだ。
「早かったね、夕飯食べてくるんだと思ってた」
「退屈なんだもん、あの子。顔は美形なんだけど・・・だからさ、ジェットコースター待ってる間に帰ってきちゃった」
「・・・それは、ないと思うな」
「あーあ。まともな男は加持さんだけね」
「そんなこと、ないと思うけどな・・・それより着替えたら? 服が皺になっちゃうよ」
「脱ぐのめんどくさいんだもん」
はぁ、とシンジはため息をつき、それからとんでもないことを口にした。
「ならさ、今からもう1回行かない?」
「どこによ」
「遊園地」
「はぁ?」
「脱ぐのめんどくさいんだろ? だったらそこに寝てるより、動いてたほうがいいじゃないか」
そんな手間をかけるよりも、アタシをなだめすかして服を脱がせたほうがよっぽど早いんじゃないかと思ったけど、その時のアタシはそれを承諾したのだった。つまらないデートでもそれなりに気分が高揚していたからだったのか、シンジの理屈に納得したのか、今でも良く分からないけど。
もしかしたらその時のアタシは、心のどこかでシンジのことを求めていたのかもしれない。
家を出たのが5時過ぎで、遊園地についたのは6時を回った頃だった。お昼頃の人ごみはすっかりうせて、園内は閑散としていた。
「何時間いられるかしらね」
「そんなにいられないかもしれない」
「・・・ま、いっか。人がいない分、乗り物は乗れそうだし」
「何乗る?」
アタシは、さっき順番待ちをしていたジェットコースターを選択した。また並ぶかもしれないと思ったけど、ほとんどの人が帰ってしまった後みたいで、たったの5分待ちで乗ることができた。
「・・・・うぇ、気持ち悪・・・」
「だらしないわねー、あんなの、エヴァが発進するときよりも全然楽勝じゃん」
「上がるのと落ちるのは違うよ・・・・ぅえ」
ジェットコースターを降りた途端にしゃがみこんでしまったシンジをベンチに座らせて、アタシはジュースを買ってきた。
「ほら、これ」
「あ・・ありがと・・・・」
「ダメならダメって最初に言いなさいよ。だんだん暗くなってきちゃったし、時間の無駄でしょ」
「ゴメン・・・初めて乗ったからさ・・・」
シンジはそう答えた。それからジュースのふたを開けて、ゴクゴクとおいしそうに飲んだ。
「来たことないの? 遊園地」
「うん」
「1度も?」
「うん」
「そう・・・」
しばしの沈黙が生まれた。
アタシだって、マトモな子ども時代をすごしたとは言えないけど、シンジのそれはもっとひどかったのかしら、とそんなことを思った。
「よし、行こうか」
10分ほど休憩したあとで、シンジは立ち上がった。
「大丈夫なの、シンジ?」
「多分ね。次は?」
「今のアンタが乗っても大丈夫そうなのって、観覧車くらいしかないんじゃない?」
「いいよ大丈夫だよ」
そう答えたシンジは、いくらか青白い顔をしていて、とてもじゃないけど平気そうには見えなかった。
「じゃあ観覧車」
「え?」
「観覧車に乗りたいのよアタシは。文句あるわけ?」
「いや・・ないけど・・・・」
「じゃあそれで決まり」
文句あるわけ? なんて、何でアタシはそういう言い方しかできなかったのだろう。
思ったことをそのまま口に出したって誰も怒ったりしないのに。
園内の一番奥にある観覧車は、日本で1番の大きさを誇るものだった。頂上まで行けば第3新東京を一望できて、晴れていれば富士山まで見れるような代物だ。
観覧車の列は少し混んでいた。周りはカップルだらけで、なんとなく居心地が悪かったのを覚えている。
係の人に誘導されて、アタシとシンジは向かい交わせるように腰掛けた。
「観覧車も初めて?」
「え・・・うん」
「ふーん。アタシもよ」
「さっき乗らなかったの?」
「そうよ。だってこのゴンドラの中ってほとんど密室じゃない。初めて会ったオトコとなんて乗れないわよ。何されるか分かんないもの」
「僕となら、いいの?」
「・・・別に。アンタがアタシに手出しするような度胸がないことくらい分かってるもの」
「そっか・・・」
相変わらず青い顔をしたままシンジは微笑んだ。
でもシンジと一緒に観覧車に乗ってもいいと思ったのは、アタシが言ったような理由じゃない。気心が知れてるとかいつも一緒にいるからとかそういう明確な理由はないけど、シンジ『となら』いい、とそう思った、ただそれだけの理由だった。
観覧車は思いのほかゆっくりと動いていた。その頃、ちょうど太陽が山に沈んで、空は赤から紫までの綺麗なグラデーションに彩られていた。
「綺麗な空だね」
「そうね」
アタシたちの間に会話はほとんどなかった。言葉でさえ雑音になってしまいそうなほど穏やかで優しい空気がアタシたちを包んでいた。観覧車の窓枠に器用に腕をついたシンジは、アタシの知らない表情を浮かべて窓の外を眺めていた。ふと自分の胸に手を当てると、アタシの心臓はいつもよりも早いリズムを刻んでいた。
つり橋の心理というものがある。例えばつり橋みたいに普段は滅多にこない場所で異性と二人きりになったとき、そこで感じる恐怖心と高揚感を、相手に対する恋愛感情だと脳が錯覚する、というアレだ。
多分その時のアタシの心理も似たようなものだったのだろう。何せ、その時のアタシは、心臓が刻むビートを、冴えない同級生だと思っていたシンジに対して、何か特別な感情を抱いているんだと思っていたから。
観覧車が徐々に頂上に近づくにつれ、心臓のビートは早くなっていく。バクバクという音がシンジに聞こえているんじゃないかと思えるくらいに。
こんなときでも涼しげな表情を浮かべているシンジを、一瞬恨んだ。
「ね、ねぇ」
「ん?」
窓から目を離したシンジと目が合ったとき、もう限界だと思った。
「キスしよっか」
「・・・え?」
「キスよキス! したこと、ないでしょ・・・?」
「うん・・・・」
「じゃあしよう」
「な、何でそんなこと」
「キスくらいでそんなにうろたえんじゃないわよ」
「べ、別にそんなこと」
「じゃ、行くわよ」
「あ・・ちょ・・・ま」
何か言いたげだったシンジに構わず、アタシはシンジの唇を塞いだ。自分の唇で。
テクニックも何もあったもんじゃなかった。挨拶代わりのキスとは全然別物だし、アタシだってキスの仕方なんて知らなかったのだから。
ただ確かめたかった。こうしたら今の自分の気持ちが分かるんじゃないかと思った。
時間にしたら、一瞬だったようにも思うし、10秒くらい経っていたようにも思う。
ぴこんぴこん、とゴンドラが頂上についたことを告げるベルが静かに鳴ったとき、アタシたちはお互いに体を離した。
「・・・・・」
「・・・・・ゴメン」
シンジは何故か謝った。アタシが不機嫌そうにしていたからかもしれない。
「何で謝るの?」
「いや・・・何でだろうね・・・・ゴメン」
さっきまでの青白さはすっかり消えうせて、今度は耳まで真っ赤になっていた。
シンジはどう思ったんだろう。何に対して謝ったんだろう。何一つ分からなかった。ただ分かったのは、キスしてみたところで心臓の刻むビートは変わらない、ということだけだった。
『あの時初めてキスして、それから何度もそういうことをするようになって、恋人同士みたいになったよね』
この手紙を書いていたシンジが少しずつ感情的になっていったことが分かった。文字のところどころが震えていて、そこだけ濃くなっているから。
あの遊園地の1件以来、アタシたちはそういうことをし続けた。
アタシは知りたかったのだ。何だか良く分からないけど胸の奥でもやもやしているこの感情が、シンジに向かっているものなのかどうかを。手をつないだりキスしたりすることがどれだけアタシに影響を与えていくのかを。ある意味では使徒よりもさらに謎めいていた自分の心を。
『アスカはあれでよかったの?
正直言うと、僕は何か違うって思ってた。知らず知らずのうちにアスカに依存してた部分があったのは認める。だけどそれって、好きってこととは違うよね』
依存という1語は的確な言葉だと思った。
『嬉しかったんだ。キスしたり二人で出かけたり、そういうことは全部嬉しかった。
でもアスカは好きとは一言も言わなかった。だから僕は苦しかったんだ、アスカの気持ちが分からないままそういうことを続けていくってことが』
好きだなんて言えるわけがなかった。最後までアタシがそれを認めようとしなかったから。ずっと2人でいるうちに、何度もデートやキスを重ねる間に、ただもやもやしていただけの何かが、あの加持さんを想う気持ちよりもずっと強い何かに変わったことを。
「このアタシがやってあげてるんだから、感謝しなさいよね」
「勘違いしないでくれる? こんなの別に深い意味なんてないんだから」
だからそうして強気な言葉で誤魔化した。その裏に隠れていた意味を、シンジは知ることはなかったんだろう。今ここにシンジがいないということが、そのいい証拠だ。
『だから――だから、さよなら。
ねぇアスカ、分かってるのかな・・僕は、君が好きだったんだよ』
手紙はそこで終わっていた。
最後の1文は後で付け足したのか、インクの色が微妙に違っていた。
最後の使徒が襲来して、サードインパクトが起こって、何もかもがめちゃめちゃになってしまったあとすぐ、シンジは消えてしまった。それを知ったのは、アタシの退院許可が下りてすぐの頃。
アタシはすぐにシンジを探した。でもそう簡単に見つかるわけもない。ネルフとも手を切ったらしく、シンジの資料は全て抹消されていた。
だからアタシはここへやって来た。1年ちょっとシンジやミサトと一緒に暮らしたコンフォート17へ。
部屋の荷物は綺麗さっぱりなくなっていて、残されていたのはこの手紙だけ。いつかアタシがここへ来ると分かっていて、シンジはこの手紙を残したんだろう。
「・・・さよなら、か」
アタシが退院してから5ヶ月が経つ。5ヶ月あればどこへだっていけるだろう。行動に制限がついたとしても、この極東の島国に身を隠す場所はいくらでもある。
「・・・・・・」
いつの間にか流れていた涙を手で乱暴に拭った。
『僕は君が好きだったんだよ』
そう言われて初めて、やっと素直に気持ちを認められそうな気がした。
「・・・・・」
立ち上がってもう1度涙を拭う。
行こう。アタシの想いを告げるために。
シンジを目の前に立ったら、また同じことを繰り返してしまうかもしれない。見え見えの虚勢を張ってしまうかもしれない。シンジを傷つけてしまうかもしれない。
でも、アタシは行かなきゃいけない。
自分で蒔いた種は自分で刈り取るべきだから。
手紙をポケットにしまって部屋を出る。
絶対にシンジを見つけ出して、こう言おう。
「アタシも好きだった、アンタのこと」