かたことかた………と,

 

包丁がまな板を叩く小気味よい音が,白い蛍光灯の光に照らされたキッチンに,

軽やかに響いていた。

 

十畳程のキッチンに据えられたテーブルにかかる,清潔に洗い上げられたクロ

スの白さが目にも眩い。その,ぱりっと音でも立てそうな程,糊の効いた布地

の上には,箸が置かれ,茶碗が伏せられて,静かに出番を待っている。

 

 

……六時になりました。…首都圏のニュースをお送り致します…

 

 

と,茜色に染まった空を望む窓の,すぐ近くに置かれたラジオからは,眠気を

誘うような音楽と共に,六時を告げるニュースキャスターの,ざらついた声が

流れて来た。

 

…緩やかさと忙しなさが入り混じった,かわたれ時のキッチン。夕餉が近いようだ。

 

「やだ…,もうそんな時間…?」

 

朗々と読み上げられるニュースに合わせ,小さな驚きの声が上がり,かたた…

ことと……と,包丁の音が速度を増した。その音に合わせ,しゅうしゅう…と

蒸気を吹き上げる圧力鍋の音が,まるで機関車の様で愉快だ。

 

…部屋中に濃く溶けている,カツオ出汁や味噌の匂い。生姜や葱,スパイスのぴりっとした香り…。

そんな食材と言う名のお客を乗せて,

 

 

高らかな包丁の音を車輪の響きに,

 

 

吹き上がる蒸気の音色を汽笛に代えて,

 

 

香りの機関車は夕餉の訪れを告げつつ,キッチンをゆっくりと走り回りながら,

壁に穿たれた換気扇に次々と吸い寄せられては,やがて星降る夜空へと旅立っ

て行った。

 

この賑やかなキッチンの流しの前に,黒のエプロンをきりり…と締めた女が一人。

 

「ふん…ふふふん…ふんふん………〜♪」

 

と,古い歌謡曲を鼻歌に乗せて,包丁を振るい,菜を刻み,鍋へと移したりし

ながら,汁の香りを嗅いでは,うんうん♪と,何度も満足そうに頷いていた。

余程機嫌が良いのか,ややショートに刈られた艶やかな黒髪から覗く明眸が,

蛍光灯の白さに映え,銀色に瞬いている。

 

…また,その輝きに負けぬほど,美しい女性でもあった。

 

「美味しくでっきたっかなぁ〜〜?」

 

年の頃は三十代中半と言った所か。すっきりと通った鼻梁に,整った小ぶりの

顔を覆った白い肌膚には皴一つなく,練り絹の様な滑らかさを持ちつつも,適

度な潤いと張りを保っている。そこには老いの影など微塵も無い。

 

「どれどれぇ……,」

 

時折覗く幼女の様な仕草に反し,大きくエプロンを持ち上げる,胸丘のふくら

みといった,艶かしい体つきは,成熟しきった女の美しさを湛えているが,ど

こか母性を感じさせるその背や,首筋の微かなふくよかさは,この女が既に子

を成した事を表している。

 

「おっ味見,おっ味見っとぉ〜♪」

 

味見用の小皿から,ほのかに湯気に立つ汁を,つぃ…と一息に飲み干し,

 

「ん……ん……!ぃよっし!」

 

綺麗にガッツポーズを決めたこの陽気な母は,影の無い笑貌をキッチンに咲かせた。

 

「今日のお味噌汁は,ゲンちゃん好みね…♪」

 

ユイ特製お味噌汁の完成ぇ♪と,嬉しそうな呟きを漏らし,うふふ…と軽やか

な笑声を一つ添えたこの人,碇ユイを季節にたとえるなら,『春』と言うのがふ

さわしいだろうか。人として暖かく,見ているだけでほんわか…と,優しい気

持ちにさせてくれる。

 

「は〜やく帰ってこないかなぁ〜〜♪」

 

そう言って,嬉しそうに我が身を抱いた彼女が主婦を勤める家は,およそ陰気

や喧騒と言った現世の禍とは,無縁の存在に思えてくるが…,

 

 

「チカン!覗き魔!!ヘンタイ!!!」

 

「なっ…!僕のどこがヘンタイなんだよっ!!??」

 

…そこはそれ。禍福は表裏一体というのが,現実の辛い所。

 

「言いがかりは止めろよなっ!」

 

がしゃん…!テーブルを叩く騒々しい音に,きゃっ!と短く悲鳴を上げたユイ

は,背中越しに後を窺ってから,

 

(あらあら………。)

 

目尻を下げつつも,内心小さな苦笑を漏らした。

 

「言いがかりですってぇ!?どっからどう見てもヘンタイじゃないっ!!」

 

…禍の種は,まさにユイの背中一枚挟んだすぐ向こう側に,生き生きと芽吹い

ており,刺々しい茨のごとき蔓をぞろり…と伸ばしては,彼女の作り出す陽気

に絡みつき,ものの見事に打ち壊していた…。

 

 

 

 

 

 






















         銀河通信



         
              (前編)

 

 

 

 

 

 

 

 













「……鼻の下伸ばして転校生の背中見つめちゃって…!みっともないったらあ

りゃしない!!」

 

ぶんっ…!と,音を立てて少女の手から離れた赤い携帯電話が,風を切ってキ

ッチンのテーブルの上を飛び越える。赤い弾丸は,対面に腰掛けた少年の顔め

がけて吸い込まれかけたが,

 

「だからぁ…,」

 

鼻先わずか数センチと言う所で,少年はかろうじてそれを手の平で受け止めた。

びりびり…と,握った手の平の内が焼け付くように痛い。

 

まともに当たっていれば,鼻血の一つも出るような,凄まじい勢いだが,少年

は彼女の乱暴な行為そのものは,全く意に介していない様で,

 

「何度も言ってるだろ!」

 

渋面を浮かべつつ,少女に向かってそっと携帯電話を差し返しながら,苛立た

しげに片手でばりばり…と,柔らかな黒髪に覆われた頭皮を掻いた。

 

「別にアスカのこと悪くなんか思ってないし,やましい事なんか一つも考えて

なかったって…!!何でそんなに突っかかってくるかなぁ…!!??」

 

わけわかんないよ…と,不快に尖らせた口先から,呆れと憤慨が入り混じった

ため息をつく彼の,他人事の様な態度がさらに逆鱗に触れたのか,

 

「嘘ばっかりっ!!!」

 

火を吐くような勢いで罵り返すと,少女はテーブルに置かれた携帯電話を鷲掴

み,間髪いれずに渾身の力を込めて,再び少年の顔めがけて投げつけた。

 

その時,ふわり…と長い少女の髪が宙に舞い,憤怒で逆立った眉と,僅かに潤

んだ瞳が露になる。

 

「アタシのこと馬鹿にした上に,アイツのことあんないやらしい目で見てた癖に!!」

 

 

紅毛。

 

 

碧眼。

 

 

加えて日本人離れした均整の取れた姿態を覆う,抜けるような白い肌は,彼女

の中に脈々と流れる異国の血が形を成した産物であろう。

 

大人びた体と上品な顔立ちに反して,少々乱暴な言葉遣いが何ともちぐはぐな

感じだが,その不均衡さが,この少女の美しさを一層際立たせていた。紛れも

無い美少女である。

 

「いやらしい目なんかしてないよっ!!」

 

この美少女の『いやらしい目』の一言にかっとなった少年は,椅子から大きく

身を乗り出すと,

 

「大体,僕が何処を見ようと,僕の勝手じゃないかっ!!」

 

テーブルに勢い良く両手を付き,怒りで震えている少女の顔を覗き込む様に,

自分のそれを鋭く寄せ,吼えた。…こちらはこちらで,吸い込まれそうな程,

黒く透き通った瞳が際立った少年である。顔立ちもまずくない。

 

「…それとも何…!?」

 

母親譲りの面貌は,野卑からは程遠い優しげな作りで,どちらかと言うと迫力

や男らしさには欠ける。だが,その柔和な顔立ちが彼の内面全てを表している

とは,決して言い切れない。

 

「僕は何かしようとする度に,いちいちアスカの了解を取らなきゃいけないの!?」

 

「うっ………!」

 

一旦心に火がつくと,持ち前の優しい顔は,時に対峙した相手に一切の反論を

許さない程の,不思議な力強さを発揮する事がある。…たおやかな外見に反し,

存外剛直な所もある様だ。

 

この時も,口調に僅かな毒を込めて,眉間の皴を深めた少年に,危うく圧倒さ

れかけたアスカだったが,

 

「そっ,そう言う事じゃなくて!!!」

 

すぐさま彼の顔を押し返すように,一際語気に力を込めた。

 

「幼馴染のアタシに恥かかすような事しないでって言ってるのよっ!本当最っ

低!!少しは頭使いなさいよねっ!!このバカっ!!」

 

目を剥いたシンジの鼻先,僅か数センチの所まで自分の顔を寄せ,

巻き舌で一息にそう言ってのけたのだから,この少女の度胸と剛腹さも一筋縄ではない。

 

「誰がバカなんだよっ!」

 

と,眉間に皺を寄せて怒鳴り返したシンジに,アスカははぁん!?と小馬鹿に

したように肩をすくめ,

 

「目の前にいるアンタに決まってんでしょ!?そんな事もわかんないわけぇ!?

だからバカなのよっ!バ〜カ!!大バカシンジぃ!!」

 

両者一歩も引かぬ罵詈雑言の応酬を,背中で聞き流しながら,ユイは時折くす

くす…と,小さな笑声をこぼしていた。

 

(今日はまた一段とすごいわね………!)

 

こちらはまた随分と腹の据わった事だが,何のことは無い。昔からこの二人,

喧嘩を始めればこんな調子なのである。いちいち気にしていたら,傍で暮らし

ている者は身が持たない。

 

…とは言うものの,

 

(そろそろ,ドクターストップが必要かしら…。)

 

これ以上黙認していては,いつまでたっても食事が始められないし,第一,食

事中の空気が険悪な事を,ユイ何よりも嫌う。精魂込めて作った食事を,苦虫

を噛み潰したような顔で食べられては,作った側としてはやり切れない。

 

(ゲンちゃんが帰ってきたら,さらにややこしくなっちゃうしね…♪)

 

おまけに頑固者で通っているシンジの父,碇ゲンドウが帰宅してしまったら,

騒ぎに収集つかなくなってしまうだろう。

 

二人の将来のためにも,それは絶対に避けたい所である。そんな様々な要素か

ら,この辺りが潮時かなと感じたユイは,

 

「ほらほらほらぁ,二人ともぉ〜!」

 

肉ジャガが程よく盛られた大鉢を手に,くるり…と,エプロンの裾を靡かせな

がら90度。目にも鮮やかに半回転すると,

 

「そろそろご飯にするから,遊ぶのは後にして,お手伝いしてくれないかしら?」

 

どかんっ!!と,それをテーブル上に据え,自身はテープカットのハサミよろ

しく,仰天している二人の顔の間に,満面の笑みを浮かべたそれを,むぎゅぎ

ゅ!と割り込ませ,抱き締めるようにして,両手で二人の肩をかき抱いた。

 

「ご飯は皆で楽しく食べましょう!これは,碇家の家訓よ♪」

 

…唾を飛ばして互いを罵り合う少年少女。

 

「かっ,母さん……!?」

 

一人はこの母の一子,碇シンジ。もう一人の少女は,

 

「おっ,おば様……!?」

 

同じマンションで暮らすユイの親友,惣流キョウコの一人娘,惣流アスカ。母

親同士が親交関係にあり,物心付く前から共に育った二人は,俗に言う『幼馴

染』と言う奴である。

 

相変わらず突拍子も無いこの母の行為に目を白黒させ,唖然とした二人だった

が,すぐさま,

 

 

「遊んでなんかいません!!」 「遊んでなんかいないよっ!!」

 

 

綺麗に声を揃えると,肩に置かれたユイの手を跳ね除け,ぷいっ!と,それぞ

れ相手から顔を背けた。

 

…しかしまぁ,よくよく仲の悪い『幼馴染』もあったもので,これでよく今ま

で喧嘩別れしなかったものであると,他人が見たら呆れ返ってしまうだろうが

 

「あら?じゃぁ何してたの?」

 

…発声練習?と,とぼけたユイの問いに,もうっ!と声を荒げた二人は,

これまた絶妙の呼吸で,

 

 

「母さんは黙っててよっ!」 「ユイおば様は黙ってて下さい!」

 

 

と,ほとんど同時に抗議の声を上げたのだから,喧嘩が絶えぬとは言え,やは

り心のどこかでは,繋がっている所があるのだろう。それが証拠に,

 

 

『喧嘩するほど仲がいい』,

 

 

『夫婦喧嘩』とは,

 

 

二人が共に通う学校で,彼らの痴態を日々目の当たりにしている友人達が持つ,

共通の認識であるが,

 

「これは僕とアスカの問題なんだから!」「これはアタシとシンジの問題なんですから!」

 

…知らぬは本人達ばかりである。

 

せっかく差し伸べた救いの手を,にべも無く撥ね退けられたと言うのに,ユイ

はそんな事など一向に気にしていないのか,

 

「あらあらあらぁ…!二人ともつれないわねぇ……♪」

 

教えなさいよぉ〜♪と,邪気の無い笑みで,拗ねるように二人にしな垂れかか

ると,両手の人差し指で,二人の頬をつんつん…と突いた。

 

…これでは,口角泡を飛ばして喚き散らしている方が,よほど間抜けに見えて

くる。何だか怒りを持続するのがバカバカしくなって来たアスカは,

 

「………シンジ,アンタちゃんと説明しときなさいよね………!!」

 

と,怒りを低く押し殺した声で,ユイの拘束から逃れると,椅子を蹴り,足音

も高らかにキッチンから廊下へと続くドアへ小走った。慌てたシンジが,椅子

から半ば腰を浮かし,彼女の背に向かって,

 

「ちょっと待てよ!何で僕が一人で説明しなきゃいけないんだよっ!!??」

 

と,鋭い静止の言を投げかけたが,彼女の性急な歩みは止まらない。ドアノブ

に手をかけたアスカは,きっ!と凄まじい形相で背後のシンジを睨み付け,一言,

 

「元はといえばアンタが原因でしょ!!!!!」

 

金切り声と共に引き開けた。薄暗い廊下には,玄関の明り取りの窓から差す夕

日の残渣が,濃い黄金色の帯となって差し込んでいる。

 

「アタシ…,今日は失礼します…!!」

 

間もなく失われて行くであろうその光の中に,足を踏み入れようとしているア

スカに対し,

 

「もうじきご飯だから,出来るだけ早く帰ってくるのよ♪」

 

頭に血の上りきった息子とは対照的に,ユイは至極のんびりとした声を放った。

ドアノブを握った少女の背に,僅かなためらいの影が浮かぶ。

 

…仕事が忙しい実母に代わって,幼い頃から我が子同然に育ててくれたユイの

言葉は,アスカにとって何よりも重い。

 

(…ユイおば様………。)

 

そんな大切な人の言葉を振り切って行こうとしている自分に,少女は淡い罪悪

感を覚えたが,それとこれとは話が別である。彼女の心はシンジとのやり取り

で,すっかり強張りきっており,ユイの温もりを,短い苦悩の末跳ね除けた。

 

「…戻ってきませんっ!!!」

 

食いしばっていた歯の隙間から,半ば破れかぶれと言った声を上げると,アス

カは勢い良くドアを閉め,どかどかと足を踏み鳴らしながら,疾風の様に玄関

を飛び出て行ってしまった。

 

「あららららぁぁ………。」

 

「……勝手にしろよな……!」

 

残されたのは目を丸くしたユイと,憮然とした表情でテーブルに頬杖をついた

シンジ,それに,なんとも言えない重苦しい空気ばかり……。

 

二人はしばし,その空気の中で沈黙の時を過ごしていたが,

 

「……さて……,」

 

やはり最初に行動を起こしたのは,百戦錬磨の母の方であった。アスカが昔か

ら気性の激しい娘であった事は百も承知だが,今日の泣き腫らした目をしてい

た彼女の様子は,少々度が過ぎていると言わざるを得ない。

 

(あんな目をして…。どうしちゃったのかしら…?アスカちゃん……。)

 

いつもならどんなに怒っていても,ユイが一言なだめると,渋々席に戻るはず

の彼女が,目の前で出て行ってしまった事は,彼女に少なからぬ驚愕を生み,

 

(……全く…,)

 

大切な幼馴染であるというのに追いかけもしない,父親そっくりの鈍感に育っ

てしまった息子に,軽い失望を覚えさせた。

 

(変な所ばっかりあの人に似ちゃって……。)

 

鈍感男で同じ苦労を経験した女として,常にアスカ寄りの姿勢を崩さないユイ

が,こう言う事態を黙認するはずが無い。

 

「シ〜〜ン〜〜〜ジ〜〜〜〜〜〜♪」

 

「なっ,何だよ……?」

 

相変わらず笑顔を絶やさないものの,突如瞳の色濃さを増した母親に,

 

(…何か…嫌な空気………。)

 

シンジは本能的に危険を察知し,慌てて部屋に遁走しようと目論んだが,そう

は問屋が卸さない。ユイの手が雷光の速さで空を切る。

 

「おっとっとぉ…!」

 

母は息子の不純な動機と共に,彼の襟首をむんずっ!と掴んでねじり上げ,

 

「逃がさないわよ〜〜〜♪」

 

「痛たたたたたっ!!!かっ,母さん痛いっ,痛いってばっ!!!首がっ!首

が絞まってる!」

 

離してよっ!と,悲鳴を上げるシンジの腰を,軽々と椅子に引き戻した。

 

「離してあげてもいいわよ♪でもね……,」

 

この細腕の何処にこんな力が潜んでいるのかと,息子が驚嘆する程の腕力である。

 

…主婦をなめてはいけない。掃除,洗濯に,布団の上げ下ろしから,買い物に

料理と。母は片時も立ち止まる暇が無いほど忙しいのである。自然,筋肉も付く。

 

「その前に,アスカちゃんと何があったのか,きちんと説明するって,約束出来る?」

 

母の言葉と腕力に少年は蒼白になって震え上がったが,こっちにだって多少の

意地と恥がある。顔を背けつつ,口をへの字に曲げたシンジは,

 

「いっ,嫌だって…言ったら……!?」

 

精一杯の反骨を示した。そんな息子の態度に,ユイは一層笑みを深め,あらぁ

…?と意外そうな声を上げると,

 

「母さんにそんな事言うつもりなの?」

 

シンジはいけない子ねぇ…♪と,少年の耳元に唇を寄せて囁いた。

 

暖かな吐息と共に耳にかかる猫なで声がなんとも恐ろしく,猫と言えば聞こえ

はいいが,同じ猫でもこれでは虎か豹である。

 

「……わっ,わかった……!」

 

…昔からこうなった母に更なる反抗を示すと,とんでもなくきついお灸を据え

られる事を,嫌と言うほど知っているシンジは,今度こそ骨の髄まで戦慄すると,

 

「するっ!説明するよっ!!!」

 

すればいいんだろ!!と,満足そうに頷いた母に向かって叫んだ。

 

…この勝負,軍配は母に上がり,敗れた息子は心底憔悴しきった顔でため息を

つくと,膝元に向かって深々と頭を垂れた。

 

(あらあら…,急に萎れちゃって…。)

 

…これは何とも妙な具合である。母として,自分に敗れただけでここまで彼が

落ち込むはずが無い事が,ユイには経験的にわかっているだけに,

 

「ねぇ…,本当にアスカちゃんと何があったの……?」

 

手近な椅子を引き寄せそれに腰を落ち着けると,少し慰めるような口調で,俯

く息子の顔を下から覗き込むようにして見た。

 

…顔色が酷く悪い。

 

「……僕だって……,」

 

母からそむける様にして丸めた背に哀切な色が浮かび上がり,その向こうで微

かな後悔を含んだ少年の声は,一層小さなものになった…。

 

「アスカと喧嘩したくて,してたわけじゃないんだよ……。」

 

 

 

 

 

 

 

 

…この大喧嘩の発端は,一人の少女によるものだった。

 

綾波レイと言う転校生である。

 

一月ほど前,第二新東京市から,シンジ達の通う中学校に転校して来たのだが,

僅かにグレーがかった綺麗な髪をショートに刈り込んだ,爽やかな感じの少女

で,性格や挙措もその容姿に違わず,颯爽とした重みを感じさせない,まるで

野に吹く風を思わせる,自由な気風の持ち主であった。

 

「へぇぇ…!そんな娘が転校して来たんだ!?」

 

興味津々と言った感じで椅子から身を乗り出し始めた母に,シンジは暗く沈ん

だ顔をゆっくりともたげると,

 

「うん,まぁね……。」

 

と,小さく頷いて見せた。…先程の勢いに反し,少年の口ぶりは異常に重く,

何とも歯切れが良くない。あら?と,不思議そうに目を瞬かせたユイは,

 

「お友達が増えるのはいい事じゃない…?それとも,何か問題がある娘なの?」

 

と,愛らしく小首を傾げながら,少年の目を見た。

 

…ユイには昔から息子と真剣に対話しようとする時,必ず相手の目の奥を覗き

込む様に見る癖がある。心がけと言っても良い。

 

「……問題って言うか,何て言うか………。」

 

その時,視線は決して逸らさない。そんな母の温かな眼差しは,いつもシンジ

に限りない安心感と信頼感を与えてくれた。悩みを相談しようとしても,判で

押した様に,

 

 

『知らん。』と

 

 

『自分で考えろ。』が

 

 

口癖の父よりも,シンジが母に懐いているのはこのせいだ。

 

「基本的には悪い娘じゃ無いんだよ。性格だって明るいし……。…誰にでも親

切だし……。……けど……。」

 

「けど?」

 

「………。」

 

ここで再びシンジは口ごもった。『けど…。』の部分に微妙な含みが見え隠れし

ている。余程話しづらい内容なのだろうか。眉間に刻まれた深い苦悩の皺が,

彼の抱えている悩みの大きさを静かに物語っている。

 

「…あのね,シンジ…。」

 

こういう時,子供と一緒に頭を抱えていては母親失格である。上目遣いに母を

見るシンジに,ユイは姿勢を正すと屈託の無い笑みを向けた。

 

「言いたくないのなら,もうこれ以上無理に聞こうとは思わないけど…,」

 

十四才のシンジは肉体も精神も成長,多感な時期を迎えている。子と共に悩む

のは確かに重要だが,悩める子に確かな道を示してやるのもまた母の務めに他

ならない。

 

そのためにはまず何よりも『安心できる笑顔』を向けてやることが不可欠であ

る。話はそれからだ。

 

「言えばきっとすっきりするわよ♪」


その点,ユイは紛れも無い賢母だった。何とも話し辛そうな様子を見せていた

シンジだが,少しずつ,彼の口は強張りを失い,

 

「母さんと話した内容は,アスカちゃんには内緒にしててあげるから♪」

 

ねっ……?と言う母の穏やかな呼びかけに,頬を幽かに赤く染めたシンジは,

しばし膝の上に置かれた手を黙視してから,ついに重い口を割った。

 

「………その娘さ…,なんて言うか……,凄く…しつこいんだよ……。」

 

「……しつこい…?」

 

「うん……。」

 

話はこうだ。転校して来てからしばらくの間,無難に学校生活を送っていたレ

イだが,

 

碇君ってさぁ……,彼女とかいるの?もしいないんだったらぁ,私,立候補

しちゃおかなぁ…♪−

 

…どうもシンジに対して思う所があったらしく,この所顔を見れば,持ち前の

明るさで所かまわず彼に声をかけてくる様になったのだ。

 

元々シンジはアスカ以外の女の子には慣れを見せず,どちらかと言えば異性と

話すのが,苦手な部類に入る男の子であったため,レイのこう言うあけすけな

態度には,正直閉口気味であった。

 

「迷惑なら迷惑って,ちゃんと言えば良いのに…?」

 

シンジのレイに対する苦言に,ユイはさも不思議そうに問うたが,そうは言っ

ても,大人にはわからぬ,子供なりの付き合いと言うものがある。

 

「同じクラスで,一日中同じ部屋にいるんだよ?変にギスギスするのって,嫌

じゃない?」

 

いくら迷惑だからと言っても,一つ屋根の下にいる相手を,そうそう邪険に扱

うわけにも行かない。第一,相手に悪意が無いだけにやりにくいのだ。

 

「だからね…,何とか誤魔化そうとしたんだけどさ…。」

 

一計を案じたシンジは,あいまいな笑顔と態度で何とか煙に巻き,彼女が諦め

るのを待つ作戦に出たのだが,これはものの見事に裏目に出た。

 

「でも,結局諦めなかったんでしょ…?」

 

「…うん…。前より酷くなった…。」

 

当たり前よ…と,苦笑した母を前にして,シンジは頭を抱えてうな垂れるしか

なかった。

 

シンジのこの気のない素振りは,レイの心に俄然やる気を起こさせるだけの結

果に終わってしまったのである…。

 

「手に入り難いからこそ,人はそれに夢中になるものなの。ほら,お菓子でも

オモチャでも,『限定品』って書かれると,余計に欲しくなっちゃうでしょ?そ

れと一緒。」

 

「ぁ………。」

 

人の心理とは母の言葉通りであろう。色香に迷って安易になびいてくる,安っ

ぽい男に強い魅力を感じる女性が,どこにいると言うのか。つれないシンジの

態度を受けたレイの,行為は,エスカレートの一途を辿ったのである。

 

ねぇねぇ!碇君。もしよかったら,一緒に帰らない? 私,碇君のこともっ

と知りたいんだ…♪−

 

こんな口調でしなだれながら,学校の中だろうが,道端だろうが,人がいよう

が平気の平左。全くのお構いなしである。

 

「まぁ…!最近の若い娘は随分大胆なのねぇ…!母さんがシンジ達位の時には,

考えられないわ…。」

 

「ちょっとぉ…!変な所で感心しないでよ…。」

 

いよいよ目を輝かせて聞き入る母に,シンジは顔を上げると口を尖らせた。は

っきり言ってシンジにとっては笑い事ではない。それでも,この問題が彼一人

の所で収まっているうちはまだ良かったのだが,

 

「そのせいでアスカが荒れちゃって大変なんだから…!」

 

レイの挑発とも取れる行為に,最も敏感に反応したのが,シンジの幼馴染にし

て,クラスメートからは,半ば公然の彼女と目されているアスカだった。

 

一緒に帰るって,アンタの家反対方向じゃない!!わけわかんないこと言わないでよね!

 

昔からユイと母であるキョウコを除けば,自分以外の女がシンジに近づくこと

に対し,異常なまでの嫌悪感を示すアスカにとってみれば,当然,レイの存在

が面白くない。シンジがちょっかいを受けるそのたびに,

 

何にも知らないみたいだから教えてあげるけど,シンジはこのアタシと帰る

のよ!これは,幼稚園の頃からず〜〜〜っと続いている,いわばアタシ達の間

の『しきたり』みたいなものなの!余所者の癖に余計な首突っ込まないでくれ

る!?

 

などと,大声を上げて

 

 

喚き,

 

 

騒ぎ,

 

 

敵愾心も剥き出しに喧嘩を売る。時には,

 

 

大体アンタに隙があるから,こうやってからかわれんのよっ!!

 

苦笑するだけでレイに抵抗らしい抵抗を示さない彼に業を煮やし,お得意の鉄

拳を振ったりするものだから,罪の意識の希薄なシンジにしてみれば,たま

ったものではなかった。

 

「何で僕がこんな目に遭わなきゃならないんだか……。」

 

どうにかして欲しいよ…と,軽く青ざめたシンジは,ため息と共に小さな恨み

言を吐き出したが,そこまで聞いたは母ふと,

 

「ねっ,そのレイって娘,可愛い娘なわけ??」

 

と,問うた。何を急に…?と,僅かに首をかしげたシンジだったが,少しばか

り考える仕草を見せてから,

 

「……人並み以上ではあると思う……。」

 

結構,他の男子には人気があるみたいだから…と,冷めた声で答えた。

 

同じ男子ながら,いささか他人事の様なその口ぶりには,彼のレイとアスカに

抱いている感情の温度差が,ありありと見えており,

 

(そう言うことね……,)

 

心中アスカを支援しているユイの口元には,幽かな笑みが浮かんだ。

 

この少々鈍感な息子は全く気にしていない様子だが,アスカの激昂ぶりから察

するに,レイは同性である彼女から見ても,脅威を覚えるほどの美少女だった

のだろう。

 

(シンジはレイって娘には,全く興味が無いみたいだけど……。)

 

…ユイは恋を知る年頃に成長したアスカが,幼馴染と言う殻から脱却し,それ

以上の関係をシンジと結びたいと,一途な想いを抱いていることを,日々の言

動からそれとなく察していた。

 

そしてその脱却はゆったりとした時間の流れの中で,少しずつ行われてゆくも

のと,アスカは考えていたのだろうが,レイの出現により状況は一変した。

 

(強敵出現に,アスカちゃんが焦っちゃったってわけか………♪)

 

シンジは『惚れられ迷惑』もいい所だと言わんばかりに,レイに対してのらり

くらりと明言を避け,彼女が諦めるのを待っている様だが,アスカの目には,

どっちつかずな彼の態度が,自分とレイを天秤にかけていると写ったのだろう。

 

どうにかして欲しい!

 

と,内心悲鳴を上げているのは,むしろアスカのほうかもしれない。

 

「成る程ねぇ〜……。」

 

そこまで聞いてから,ユイは薄桃色の唇に人差し指を添えると,ふむふむ…と,

小さく呟きながら目を閉じた。聡明なこの母が何事かを考える時に見せる,愛

らしい仕草である。

 

彼女はしばしその姿勢のまま,困惑気味の息子の前で目を閉じていたが,

 

「…まぁ,だいたいの状況はわかったわ。」

 

割目し,指をそっと杖の上に戻すと,ユイは再び目を向けた。

 

「でもね…,」

 

息子の話で一点,わからないことがある。

 

確かに綾波レイの出現は,アスカの尻に焦燥の火をつけたには違いないのだろ

うが,それだけでは,今回のいささか常軌を逸した彼女の怒り方の説明がつか

ない。

 

「それだけで,あんなにアスカちゃんが怒ってるの?」

 

なぜなら,これまで,同様のケースが無かったわけではないからだ。

 

親の欲目ではないが,シンジは結構もてる。ユイの知るだけでも,彼に言い寄

った娘は,10人は下らないはずである。

 

どの娘も,アスカに対して挑戦状を叩き付けるだけあって,それなりの美少女

であり,その度にアスカは,顔を青くしたり赤くしたりして,懸命に彼女達を

撃退し,そんな自分の努力の影に隠れた想いに,これっぽっちも気づいてくれ

ないシンジを,怒鳴り散らしていた。

 

が,今日のそれは,ユイの経験を上回る激しさであり,ここに違和感を覚えな

い方が,どうかしている。

 

「ぁっ,いや………。」

 

母の問いに,シンジは顔色を変えると明らかに口ごもった。

 

「…そういえばさっきアスカちゃん,『転校生の背中』がどうとか言ってたわね?」

 

「ぅ……。」

 

「あれはなぁに?」

 

…気の早い話ではあるが,いつの日かシンジと結婚して,本当の娘になって欲

しいとまで願っているほど,愛しんで来たアスカの恋路となると,こと,母の

観察眼は冴える。そして,その目は確かにシンジの懐を,鋭くえぐったようで

あった。

 

「……………僕が………,」

 

果たして,息子は悲しげに顔を歪めると,

 

「…綾波の背中見ていたから,アスカが怒り出したんだ…。」

 

謎めいたことを言ってから,小さく唇を噛んだ。

 

「背中を………?」

 

「うん……。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…この騒ぎが起こった日の放課後,シンジとアスカは一部の生徒達と共に,教

室に居残りを喰らっていた。

 

別に仲良くそろって補修を受けるとか,そう言う『有難くない』理由によるも

のではない。二人の通う学校では,生徒は班単位に分けられ,それぞれの班が

持ち回りで週二回,学内を清掃する決まりになっている。

 

シンジとアスカは入学当初から,ずっと同じ班に属しており,今日は彼らの班

が,当番だったと言うわけだ。

 

お掃除面倒臭〜〜〜〜い!せめて週一回なら我慢できるのに…。何で二回も

やんなきゃいけないのよっ,バカシンジ!

 

僕に文句言うなよ…!学校の決まりなんだから仕方ないだろ。

 

…掃除当番など,遊び盛りの中学生にとっては,はっきり言って迷惑極まりな

い制度である。

 

とは言え,この時ばかりは,一緒に帰ろうと付きまとうレイから解放されるた

め,シンジにとっても,またそれを阻止するアスカにとっても,数少ない憩い

の一時でもあったが,

 

掃除と言えばさぁ…。ユイおば様って,どうしてあんなに楽しそうにお掃除

できるのかしら?流石よねぇ…。

 

アスカ昔っから掃除とか家事が嫌いだもんね。…良かったら,母さんに家事

が楽しくなるコツ,聞いておこうか?

 

…一言だっておば様にそんなこと言ってみなさい!アンタ締め殺してやる

からね!!

 

じょっ,冗談だよっ!冗談!!

 

…しかし,よもやその面白くない作業を,さらに面白くなくさせる災厄が降り

かかってこようとは,掃除の開始を待っていた二人は,予想もしていなかった

ろう。

 

…さて,その災厄とは…。

 

あっ,碇く〜〜〜〜〜ん!

 

突如聞き覚えのある声に名を呼ばれ,シンジと,それを耳にしたアスカは,声

の聞こえた教室の入り口付近を振り仰いだ。

 

ぁっ…。

 

げっ…!

 

途端に,二人の目が大きく見開かれる。教室の入り口に立ち,シンジに向かっ

て可愛らしく手を振りながら声を上げていたのは,レイであった。教室に残っ

ていた生徒達の訝しげな視線が,一斉に彼女に集中する。

 

何で綾波が…?

 

どうしてアイツが…?

 

それもそのはず。レイは同じクラスメートと言えど,班は全く別なのである。

部活にも入っていない彼女が,この時間に,わざわざ学校に居残っていること

自体が,そもそもおかしい。だが,

 

あのね,今さっき先生に言われたんだけど…,

 

そんな疑問は,グレーの髪をなびかせながら,まるで小鳥が舞う様に,軽やか

な足取りでシンジの元に駈け寄って来た彼女の一言で氷解した。

 

えいっと両足を揃え,綺麗にシンジの前で立ち止まると,両腕を体の前で交差

させたレイは,前のめりの悩ましげなポーズを作りながら,満面の笑みで,

 

今日から一緒の班なんだって♪よろしくね♪

 

と,宣言した。

 

えっ!?あっ,えぇぇぇぇぇぇぇっ!!!???

 

あまりに唐突な出来事に仰天したシンジは,危うく椅子から転げ落ちそうになり,

 

あっ,アンタがアタシ達と一緒の班すってぇ!?

 

アスカは震える指先でレイを指しながら,まるで親の敵でも見るような目で,

彼女を睨みつけたが,当然レイの視界には,そんな彼女の憎悪を含んだ視線な

ど,まるで入っていない。

 

私ね,ずぅ〜〜〜っと先生に,『碇くんと同じ班になりたいんです!』って

お願いしてたの♪

 

…どうやらこの少女の網膜には,自身に都合の悪い光景は,まるで写らない仕

組みになっているらしい…。愕然としているアスカを,さらり…と無視した挙句,

 

ねぇ,一緒にお掃除しよう♪

 

白黒させているシンジの手を取りながら,早速色目など使い始めたものだから,

アスカの脳漿は,まるで焼け石でも放り込まれたかのように一瞬で沸騰した。

 

―(この泥棒猫…!よくもアタシの見ている前でぬけぬけとっ!!!)―

 

…アスカは口も早いが,手も滅法早い。

 

例え相手が女だろうが宇宙人だろうが,自分の前に立ち塞がる壁は,蹴り倒し

て押し通ると言った,少々強引な一面がある上,恐ろしいことに怒りが頂点に

達すると,周囲が全く見えなくなると言う悪癖がある。

 

(許さないっ!!!!)

 

この時も一触即発の空気が周囲に満ち,あわや血も凍るような惨劇が展開する

かと,レイを除く教室中の生徒達が青ざめたが,流石に昼間の教室では衆目が

多いことに気づいたアスカは,煮えくり返ってヘソから飛び出しそうになって

いる腸を必死に押さえつけ,

 

シンジぃ!!

 

勢い良く席を蹴ると,素早くシンジの空いている方の腕を掴んで,渾身の力で

レイを引っぺがしながら,がっちりと我が身に抱き寄せた。

 

…わかってるだろうけど…,

 

そして聞こえよがしの大声で一言。

 

アンタはこのア・タ・シと一緒に,廊下の掃き掃除するんだからね!!

 

えっ,あ!うっ,うん…,そう…だったね…。

 

ちなみにこの時点で,二人の掃除場所は決まってなどいなかったが,坊主憎け

りゃ,袈裟まで憎いとはこのことで,

 

…そう言うわけだから,お生憎様!転校生!!!―

 

レイがいるかと思うと,いつもと同じ空気の教室も,悪臭を帯びているようで

ある。その空気を吸いながらの作業なんか,死んでしたくないアスカは,シン

ジに無理矢理ほうきを握らせて,廊下へ引っ張り出すと,

 

アンタは一人で掃除でも何でもしたら!!?

 

きょとん…としているレイに向かって舌を突き出し,盛大にあっかんべ〜!を

して見せた。

 

(アンタなんかにシンジは絶対,ぜ〜〜〜〜〜〜ったい渡さないんだからっ!)

 

後はこれみよがしに大きな音を立てながらドアを閉めれば,シンジの隔離はも

う完璧である。廊下への人数割り当ては二人と決まっているので,こうして出

てしまえば,たとえ図々しいレイと言えど,追っては来れまい。

 

(ざまぁ見なさい!!)

 

二人っきりの廊下にひとまず安心したアスカは,ふんっ!と,大きく鼻を鳴ら

し,勝ち誇った笑みを浮かべたが,本当の問題はその後に起きたのである。

 

 

…小一時間,何事も無く二人は掃除を続けていたが,

 

…これで終わりかな。―

 

廊下のゴミをあらかた塵取りにかき集めたので,教室内のゴミ箱にそれを捨て

に行こうと,ドアを開けたシンジの視界に,意外な光景が飛び込んで来た。

 

………。

 

…それは,床に膝をついて,手にした雑巾をバケツの水ですすぎ絞っている,

レイの後姿であった。

 

…お喋りに夢中になって,さっぱり手を動かしていない他の生徒達を尻目に,

彼女は雑巾を洗っては床を拭き,また洗うといった作業を,一人黙々とこなし

ている。時折額の汗を拭う仕草が,いかにも爽やかだ。

 

制服の背中側から覗く白いブラウスが,しっとり…と汗で滲み,僅かに下着の

輪郭が浮かんでいる所を見ると,かなり長い間,力を込めて掃除をしていたの

だろう。

 

(へぇ………。)

 

苦労の跡が伺えるその背に向かって,シンジは内心驚きの声を上げた。

 

(賑やかなだけの女の子かと思ってたけど,意外と家庭的な所もあるんだ……。)

 

普段目にするレイの挙措から,彼女はどちらかと言えば,お喋りに興じる側の

人間で,積極的に手を動かすタイプの女の子ではないと,シンジは頭から決め

込んでいたが,どうやらその辺りの認識だけは,改めねばならなさそうである。

 

(人は見かけによらないって,このことだな…。)

 

そんな事を考えながら,シンジはしばし働く彼女の背中を見つめていたが,別

段,それ以上の感慨を抱くことも無く,小さく肩をすくめてから教室に入ろう

とした。しかし,

 

ちょっとシンジ……。

 

背後から突然声をかけられ,ぇ…?と少年は振り返った。…いつの間に近づい

てきていたのか,すぐ間近にアスカの顔がある。

 

今何見てたのよ…?

 

と,怪訝そうに目を細め,斜に構えて自分をみてくる彼女の視線を,

 

…別に。たいしたものじゃないよ。

 

シンジはさらりと受け流そうとした。実際,彼にとってレイの後姿など,たい

したものではないと言う意識が強いだけに,そう言う曖昧な返事をしたのだが,

 

ちょっと……!

 

爪先立ちながら彼の肩越しに教室の中を一瞥し,そして,その視線の先に掃除

中のレイを認めたアスカは,途端に表情を険しくして,振り返りざまにシンジ

を睨み付けた。

 

転校生じゃない!あんな奴の背中見つめてなに妄想膨らましてんのよっ,

バカエロシンジ!

 

なっ!妄想なんか膨らませてないよ!

 

アスカのきつい一言に,かちん…と来たシンジは,むっと口を尖らせて反論した。

 

基本的に異性と話すのが苦手なシンジは,女の子との会話や口調に,自分の感

情を露にすることがほとんどと言って良いほど無い。淡々と喋るだけである。

 

が,同じ女子でも幼馴染であるアスカにだけは,腹蔵なく物を言えるため,二

人の間では口喧嘩が日常茶飯事と化していた。それだけに,

 

彼女にも意外と家庭的な一面があるんだなって思っただけだよ!

 

この時の会話も,いつもの口喧嘩の延長線上にある程度にしか考えてなかった

シンジは,さして深く考えもせずにそう返してしまったのだが,これがものの

見事にアスカの逆鱗に触れてしまったのである。

 

それアタシに対する嫌味!?

 

と,急激に顔色を変じたアスカは,手にしたほうきを床に投げ捨てると,シン

ジの制服の胸倉を掴んで力いっぱい捻り上げた。

 

いっ,嫌味ぃ!?

 

目を丸くしたシンジが,上ずり気味の声で彼女の言葉を反芻する。そんなシン

ジの前で,アスカの青い瞳を収めた目に,見る見る涙が張られ,

 

どうせアタシは,お料理もお洗濯もお掃除も下手糞なガサツ女よっ!悪かっ

たわねぇ!!

 

ちょっ,ちょっと待ってよっ!僕アスカのこと『ガサツ女』なんて,一言も

言ってないじゃないか!

 

その涙が重力に負けて,次々と頬を滑り落ち始めたのを見たシンジは肝を潰した。

 

何勝手に話し作ってんだよっ!!

 

あの気丈なアスカが涙を流したこと自体驚きだが,何がどうしてこうなったの

か,シンジにはさっぱりわけがわからない。

 

言ってるのと同じよぉ!ばかぁ!!!

 

はぁ!!??

 

確かにレイの掃除する姿を見て『家庭的だな』とは思ったのは事実だ。しかし

それは例えて言うなら,道端に咲いた白い花を見て『白い花があるな』と思っ

たのと同程度のことであって,それ以上の感慨は何も無かったのである。

 

(しかも何で泣くの!!??)

 

…ましてや,アスカを泣かせるつもりなど毛頭ない。

 

(僕,そんなに酷いこと言った!?)−

 

と,彼は混乱を極める思考を必死に鎮めながら,今までの会話を何度も手繰り

寄せ,アスカが泣き出すような要素をなんとか探そうとしたが,やっぱり何が

悪かったのか,少年にはこれっぽっちもわからなかった…。

 

ただ見てただけだろ!?

 

この頃になると,教室で掃除をしていた生徒達や,騒ぎを聞きつけてあちこち

からやって来た,他のクラスの生徒達で,二人の周囲は押すな押すなの黒山の

人だかり。

 

泣いている女を前にして困惑する男という図式は,今も昔も変わらぬ男女の愛

憎劇の一幕とあいなれば,野次馬共の脳裏にも,様々な憶測妄想が浮かんでは

消えるもの。

 

 

やれやれ…校内で痴話喧嘩かよ…,みっともねぇなぁ…!

 

 

女の子泣かせるなんて幻滅…!碇くん見損なったわ…。

 

…女の敵…!

 

 

シンジに降り注ぐ視線と野次は,あっという間に氷雪のごとき鋭さを含んで,

彼の全身に雨あられと突き立てられたからたまらない。

 

…しかも,アタシの目の前で,アイツの背中いやらしい目で見てぇ!信じら

んない!!!

 

ちょっ,ちょっとアスカ!頼むから泣き止んでよぉ!!

 

土下座せんばかりに伏し拝んでも,一旦火がついたように泣き出してしまった

アスカの勢いは全く衰えず,恐慌状態に陥ったシンジは仕方なしに,アスカの

手を無理矢理引きながら人垣を突き破ると,轟々たる非難を背中に浴びつつ,

カバンも持たずに家に向かって遁走したと言うのが,今回の一件のあらましで

あった…。

 

 

 

 

 

「…後はもう,売り言葉に買い言葉って奴で…。」

 

そこまで話し終えると,シンジは精根尽き果てたようにして,ぐったりとうな

垂れた。

 

…結局,帰りの道すがらから今,先ほどに至るまで,二人は会話のまるで噛み

合わない罵り合いを,延々と繰り返してきたと言う寸法である。…成る程,こ

の息子が口ごもったわけであると