
小さな窓から見える空はやっぱりちっぽけだけど、僕はこの窓から見える空が大好きだ。
網戸なんてやぼったいシールドはいらない。ベッドに座って窓を全開にして、そこから見えるものをぼーっと眺める。人生にはそういう意味のない時間も必要だ、そう力説したら、アスカは、
「なら、シンジの人生は意味のないことばっかりね」
と言って笑った。
今日は雨が降っている。空はグレー一色だ。
窓の外にある緑の葉をつけた木―なんという種類なのかも知らない―に、透明な雨だれがぽたぽたと落ちている。
「雨が炭酸水だったらいいのに」
僕の目の前にあるイスに座ったアスカは突然そんなことを言い出した。
「何で?」
「夢があるでしょ?」
「ん、そうだね」
僕がぼーっと窓の外を眺めることに対して、アスカは何も言わない。
アスカも分かっているんだろう、人生には無意味な時間も必要だ、ということを。
窓の桟に雨が撥ねている。後で拭かなきゃならないな、そんなことを思う。
「雨に色がついててもいいと思うんだ」
「例えば何色?」
「青、とか。緑でもいいかな」
「緑はイヤよ。腐ってるみたいで」
「腐る?」
「何にもしないで放っておいた水槽とか、ほとんど世話をされてないような池とか、みんな緑色の水だったでしょ。ああいうのは嫌い」
「アスカは何色ならいいの?」
「すごく薄い水色とか」
「そっか」
ベッドの横にある小さなテーブルの上のマグカップに手を伸ばす。少し前にいれたブラックコーヒーは冷め切っていた。アスカ好みの温度にするとすぐに冷めてしまう。僕は別にそれでも構わないのだけれど。
アスカは僕の目の前で文庫本を手にしている。けれども、その本に目を通していない。僕と同じように窓の外を眺めている。アスカは何を考えているのだろう。同じ空、同じモノを見てもそこから考えることは人それぞれだ。
窓の外を見ていたアスカはふいに僕に向き直った。いたずらっこみたいにニヤリとするその仕草は、出会った頃とほとんど変わらない。
「アタシのこと見てたでしょ?」
「うん」
「あら、なんだか素直ね」
「隠してもどうせバレちゃうしね。アスカには敵わないよ」
「ふーん、やっと分かった?」
「うん、やっとね」
アスカは満足げにまた窓の外に目を向けた。
僕らがこうして一緒にいるようになってからもう何年も経っている。その間、何度も衝突したけど何度も仲直りしてきた。そんなことを繰り返すうちに、僕らの絆はどんどん強くなっている気がする。折れた骨がくっつくときにそこが太くなるのと同じように。
「ねぇ、シンジ」
「ん?」
アスカはまだ窓の外に目を向けたままだ。彼女の声を聞き漏らさないように、僕は耳をすませた。
「アタシ、今、すごく幸せよ」
そう言った後で振り返ったアスカの青い瞳は微かに潤んでいた。しとしとと降る雨とグレーの空、そこからアスカは何を考えてそう言ったのだろう。僕には分からない。だから僕に言える言葉は1つしかない。
「うん、僕もだよ」
僕も幸せだよ。僕がそう言ったのと、アスカの目から涙が溢れ出したのはほとんど同時だった。
昔のアスカなら僕の前で泣くことは絶対なかった。何があっても、僕の前で弱さをさらけ出そうとしなかった。
ふいに彼女がとても儚い存在に思えて、僕は後ろからそっと彼女を抱きしめた。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・大丈夫?」
「ん・・・」
「そっか」
僕らはしばらくそうしていた。俯いたままのアスカはときどき、すんすんと鼻を啜った。僕はそのたびに、後ろから回した腕に力をこめた。
どれくらい時間が経ったのだろう。ゆったりした時の流れを掴むのは難しい。長かったようにも短かったようにも思える。とにかくしばらく経った後でアスカが少し身じろぎをして、僕の方を振り返った。健康的な白い頬には一筋の涙のあとがついていた。
「ん?」
「涙、ついちゃったわね、手に」
「いいよ別に。涙なんて汚いもんじゃないからさ」
「ん」
「・・・あのさ」
「何?」
「雨は、炭酸水でも色がついててもいいかもしれないけど」
「うん」
「涙は、透明な方が綺麗だね」
「・・・バカ」
「いいよバカでも」
アスカの傍にいられるなら。
小説や映画だったらそう続けるんだろうな、と思いながらも、僕の口からその言葉が出ることはなかった。普段の臆病で照れ屋な僕が顔を出したみたいだ。いまいちキマらなかったな、とどうでもいいことを思った。
いつの間にか雨は止んでいた。グレーの雲の切れ間から水色の空が見える。目の前の木の葉には、透明な雫がたくさんついている。
「虹が出そうだね」
「そうね」
「外まで行ってみる?」
「こんな顔で?」
「僕は綺麗だと思うけど?」
「何言ってんのよ」
顔洗ってくるわ。アスカはそう言って立ち上がり、
「・・・バカ」
と、僕の頭をはたくと、満足げに微笑んでバスルームへ消えた。
窓から顔を出して空を見てみた。雲の切れ間から太陽の光が差し込んでいて、とても荘厳な眺めだ。
幸せの定義なんて分からない、と昔誰かが言っていた。言われてみればそうだ。どんなことが幸せかなんて、人それぞれだから。
「・・・幸せ、だな」
他人が見たら、今僕らが過ごした時間を「無駄」だと言うかも知れない。でも僕は幸せだと思った。アスカもそう。それでいいんだ。
「何しみじみしちゃってんのよ」
その声で振り返ると、すっかり普段の様子に戻ったアスカがいた。腰に手を当てていつものポーズ。
「ほら、行くんでしょ? 虹を見に」
「ん、行くよ」
「あ、でもちょっと待って。アンタそのカッコで行く気?」
「え、ダメ?」
「だってそのシャツ、よれよれでみっともないわよ」
「そう?」
「何でアンタってそんなに服に無頓着なわけ?」
「そんなことないよ、ちゃんとしてるだろ?」
「ったく、何でアタシこんなのと一緒にいるのかしら」
「何だよ、さっきは幸せだって泣いたくせに」
「うるさいわね・・・さっさと着替えてよ、ちゃんと窓も閉めて」
「はいはい」
そんなことしてる間に虹が消えちゃうような気がするんだけどな。少し重たい窓を閉めながらそう考え、とにかくシャツを着替えようとクローゼットに手を伸ばしたときだった。
「・・・お返し」
小さな甘ったるい声がしたあと、白い腕が僕のおなかのあたりに絡められた。アスカの温もりと、女の子特有の柔らかさが背中に広がった。
「どうしたのさ」
「なんとなく、よ」
「虹、見に行かないの?」
「それもいいけど、今はこうしたいの」
「ふーん」
「ダメ?」
「ん、僕はいいけど」
僕は身をよじって正面からアスカを抱きしめた。
何で女の子ってこんなに華奢で柔らかいんだろう。
「・・・今日のアタシたち、なんかヘンね」
「そうかもね。僕は別にこれでいいけど」
「ん」
「アスカ」
「何?」
「好きだよ」
僕の腰に回された手に力がこもった。少しの沈黙のあと、ごくごく小さな声でアスカが、うん、と言うのが聞こえた。
何気ない時間、意味のない会話、小さな窓から見える空、雨と涙。それだけの材料で出来た今。
こういう幸せならいくら続いても構わないな、僕はそう思った。